羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

大人げないおっさんから学ぶ、日常の「速さ」

 

 お腹すいた時に天丼が食べたいなと思ったそのとき、ふと、あることを思い出した。

 それは平日の昼下がり、天丼屋で店員に向かってどうしようもない文句をぶつけていたおっさんのことだ。

 

 あまりにもくだらないので、ながなが書く気はないので単刀直入に言うと、

 「時間がかかっているぞ。早くできると思ったから入ったのに」

 ――と、どうしようもないものだった。

 ちなみに、そのおっさんは私が入ってときから後に来た客で、だいたい10分くらいでそれを言い出した。

 確かに、時間わずかな昼休みで10分のロスは痛いものであるが、チェーン店でもない町の天丼屋でそれを言うのはどうだろうか。

 ――お腹すいたから早く食べたいのではなく、時間がもったいないから早く食べさせろだから、なんかもう救いようがない。

 仮に大事な商談があるからちょっと食べておこうだったのならコンビニで買うか、チェーン店に入った方が確実に時間の節約になる。だというのに、なぜ、町の天丼屋に入ってしまったのか。

 確かに、その店は見てくれは飲食チェーン店のような装いをしていたが、中は少し広い食堂屋であった。券売機もなければ、呼び出し鈴もない。ごく普通のお店である。たいていそういうお店は時間がかかるという覚悟と、それに似合った味を提供してくれる楽しみがあると思った方がプラスに働く。

 しかし、おっさんはそういう目がなかったのかどうかはわからないが、入ってから10分足らずに「早くしてくれ!」と文句を言った。無理言うな。工場で冷凍パックした飲食物をお店で解凍してそれを出しているのとは違って、厨房で一つ一つ調理しているのだから。

 チェーン店に慣れたサラリーマンであれば、どんぶりものはすぐできると思っているのだろうか。20分前後、いや、15分はかかるだろうに。

 

 と、言うのが一週間前まで私が思っていた町のどんぶり屋に対する認識だった。

 

 ところが、最近できたチェーン店のカツ丼屋に入ってカツ丼を注文したら10分足らずにカツ丼が出てきた。カツ丼がこんなにもすぐできるのかと関心してしまうと同時に、おっさんのガマンはこういう店から作られているのだと改めて思う。日常的にこういうお店ばかりに入ったら速さに慣れてしまう。

 日常の「速さ」がここから作られる。

 おっさんの言った「早くできると思ったから入ったのに」という言葉の真意を、10分足らずに出されたカツ丼を見てわかった気がした。

 

 だが、おっさんの文句を認めたわけではない。日常の「速さ」に慣れてしまって、日常の「遅さ」を感じた時に、誰かに当たるのはあまりにも大人げない。日常が「遅くなった」とき、自分の立てたスケジュールとズレてうまくいかないことはわかる。だが、今までの日常が「速かった」という目で見ないと、その日常の「遅さ」と遭遇したときにうまく対処できない頭となり、感情的になり、大人げないおっさんとなる。

 

 でも、今回、私は日常の「速さ」でおっさんがキレたワケに気づいたのだが。日常の「速さ」に慣れ過ぎると、日常の「遅さ」を感じた時に不快感を知る体質になるのはとても怖いものだ。町の洋食屋でも行って、時が遅く流れる感覚を味わい、そのズレを直した方がいいかもしれないと言ってみる。

 

 ちなみに、味は町のどんぶり屋の方がチェーン店よりおいしかったです。

 

 

千羽鶴はいつ届けるべきか?

 

 熊本地震被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。

 

 さて、熊本地震について色々と思うことがありますが、一番思っていることが一つ。

 

 色々と早い。そんな気がしてならない。

 

 熊本地震が発生してから一週間近く、驚くほど迅速な対応ができている。これは、東日本大震災の経験やその後の法律によって対策ができているからだと考えられる。

 一方でその早さが裏目で出ているのもしばしば見受けられる。その一つが被災へと届けられる千羽鶴である。

 

 私も小学校の頃、修学旅行で原爆ドーム千羽鶴を届けるために折ったことがある。それまで千羽鶴なんてものを折ったことがなかったため、首や羽がくたびれた感じの折り鶴になってしまった。また、中学校の頃にも千羽鶴を折ることにもなり、千羽鶴に関してはあまりいい想い出がない。

 とはいえ、子どもにとって誰か傷ついたヒトに届けられる数少ない応援メッセージといのはそういうものでしかない。お金以外のものでくすぶった気持ちを昇華させるには、千羽鶴を折るのが一番ということになる。

 しかし、被災者にとっては本震から一週間、まだ余震がやってくるかもしれないと恐怖を感じているときに、これからガンバって羽ばたいていこうと元気な気持ちを与える千羽鶴は相性が大変悪い。また、生活圏が急変し、これからどうやって生活するかを考えないといけない。つまり、千羽鶴を届けるのは時期早々というわけである。

 ところが、震災が現れると困っているヒトがいるから千羽鶴を折って元気づけようとする発想が出てくる。勿論、誰かのために何かをしてあげるという気持ちは、どんな宝物よりも大切なものである。だが、誰かのために何かをしてあげたいという気持ちは相手の気持ちを聞かないことにはお節介以上の厄介事であり、逆に相手の気持ちを逆なでにする行動となる。

 困っているヒトに何かをしてあげたいという気持ちが無闇にからぶっている。これが私にとって、「色々と早い」と感じる理由なのだろう。

 

 何百回以上の余震が現れ、まだ地震が来るかもしれないそういう精神状態で、千羽鶴が届けられたら、これ以上地震に対してがんばらないといけないのかという気持ちになってしまう。これでは精神がすり減ってしまう。相手はそういうつもりで千羽鶴を折ってはいないが、届けられた方はそんな気持ちになってしまえば、千羽鶴の羽は羽ばたかない。

 震災と聞いて何かしたいが、お金がなく、何もできないとくすぶっているかもしれない。そういう気持ちの中で誰かが間違ったことをしたら厳しく非難したくなる。それで被災者のためになる気持ちになれる。いや、それが正しいことだと思ってしまう。そういう気持ちになってしまうのであれば、それは千羽鶴を折ることよりも悲しいことかもしれない。

 自分は何もしていないのではないかとくすぶっている感情が攻撃的な感情をもたらす。そんな自分は揮発するアルコールみたいなもので、着火されやすくて、炎上させやすい。しかも、たちが悪いことに自分の言動を正当化してしまう。誰かのためにしてあげたい感情が悪いエネルギーになっているときだ。

 そういう気持ちになっているのであれば、千羽鶴を折るのはいいことかもしれない。誰かのために思う気持ちがカタチになっているからだ。ただし、届けるのは後にする。余震が終わり、被災者に生活のメドが出てきたときに始めて届けられる。千羽鶴の羽も元気よく羽ばたけるだろう。

 つまり、千羽鶴を折るのは今でも後でもよく、千羽鶴を届けるのは、相手先が笑顔に驚かせる時期まで遅らせるのだ。

 

 「色々と早い」情報化時代の中で、意識して「遅らせる」方法を取るのが必要だと思う。このいつ届けるかがいつになるのかはわからないが、それまで待とう。

 相手のために必死に折った千羽鶴が部屋の物置になるから捨てようと言うのであれば、厳しいことをいうかもしれないがそういう気持ちで折ったにすぎないのだ。

 

 私の親戚も熊本県にいる。阿蘇から離れた南部にいるのだが、たいへんだったようだ。また、友だちも福岡県にいて、なんとか大丈夫、とLINEと返答した。

 そういう状態の中、自分ができることといえば、情報を集めるか、自分のモヤモヤしている感情が何かを見極めることぐらいしかなかった。で、やっと、このモヤモヤ感というのが、誰かのために何かしてあげたいくすぶっている感情だったと、このブログを書いている時にわかってきた。

 このくすぶっている感情が良いエネルギーになるか、悪いエネルギーになるのかは、そのヒト次第。もし、悪いエネルギーになりかけているのではないかと感じてくれたのであれば、このブログを書いた意味がある、と、言ってみる。

 

 ……今年の終わり頃か来年か、九州に行くことになるかもしれないな。

 

テレビの魔法が解けた日-2016-01-18

 

 SMAPと言えば、日本に住むヒトなら誰もが知っているスーパーアイドルであり、多くのヒトに夢や希望をもらしてくれた大きな存在であった。

 彼らがテレビに出ると、視聴者は、次はどんなことをしてくれるのかを期待し、同時に彼らはけして私達の期待を裏切らない大きな安心感を与えてくれた。

 

 ところが、SMAPの謝罪会見によってそれは大きく覆された。彼らは深々と頭を下げ、自分達の行動に不手際があったと謝罪し、責任を取る社会人の姿がそこにあった。

 この行動に関して、パワハラだ、BPOだ! という声があがっている。しかし、私にとって気になったものはそれではない。あの謝罪会見によって何か大きなモノを崩れたのだ。

 その大きなものというのはテレビに掛けられていた魔法、すなわち、テレビの安心感というものが崩れたのだ。

 

 家に帰ったらテレビをつけて、それをBGM代わりにして、着替えをして、次は何をしようかなと考えるものである。テレビをなせつけたがるのかは、それは部屋の中で一人だと寂しいからであり、何らかの声が欲しいものである。かといって、歩道で遊んでいるこどもの声をBGMにするには少々うるさいものである。なぜなら、自分で音量を調節することができず、自分の期待するような行動をするはずがないからである。

 ここでいう期待とは、ニュース番組の新しい情報やバラエティ番組の笑い声と言った、テレビをつければ当たり前に送られてくる情報に対する期待を意味する。私たちは現在の情報や少し雰囲気を変えたい、笑いが欲しいなど様々な要因によってテレビをつけて、情報をもらい受ける。そのとき、心の中にあるのは、それらがもたらされるはずであるという期待感であり、その期待感に突き動かされてリモコンを持って、電源を入れるのである。

 

 今回のSMAPの謝罪会見も何らかの期待感を持ってリモコンを手にしたはずである。解散しないでほしい、彼らはこれからどうになるのだろうかという不安感に煽がれて、その気持ちを止めるため、安心感を得ようとテレビを見ていたはずである。

 その結果、2016年1月18日で見たものは、安心感どころか、テレビそのものを伝えてしまった『報道』であった。

 あの報道は、「私達の作っているテレビはこういうところです」というすべてが込められた濃密な数分間だった。おそらくすべてのヒトは謝罪よりも、「テレビ」というぞくりとしたものを目や音やその身体で感じたはずである。もちろん、演出だったと考えれば、そこで思考を止めることができるが、その演出をも越えるにじみ出た恐怖感は忘れることはできない、……テレビはこういうところ、という現実を見せられた瞬間だった。

 そう、あの『報道』によって、安心感を求めていた私達はテレビに対する期待感が崩れてしまった。 

 

 安心感という魔法が解けてしまった私達はこれからどうなるだろうか? おそらく、何も変わらないはずである。いつもどおり、テレビをBGMに日常生活を営み、毎日を過ごすはずである。そして今までどおりテレビに出てくるタレントに期待して、安心感のある笑いやどうでもいいような情報を受け取るはずである。

 だが、時折、目に入るタレントに対して今までと同じように見ることができるのだろうか? 私達は魔法の掛けられたときのまま笑っていられて、その情報を素直に受け取ることができるのだろうか。あの芸能人が言っていたのだから、この商品はいいもの! と鵜呑みにして商品を買うことができるのだろうか……

 昨今、テレビはつまらないと言われているが、それでも一定の視聴者が見続けて、大きな広告効果をもとらしている。番組と企業がタイアップして商品を紹介する番組も少なくない。テレビの効果はまだまだ健在である。

 しかし、魔法を解けてしまった視聴者はその番組を見て、あの『報道』と同じときの感覚を受けてしまったらどうだろうか。果たして視聴者は手に取ろうとするだろうか。安心してテレビに期待していたときの自分と、あの報道を見た後の自分とは少しテレビを見ている質感が変わっているはずだ。

 

 そう、あの『報道』がもたらしてしまったものは、今まで作り上げてきた「テレビ」の魔法を、皮肉にも、テレビ自身が崩してしまったのだ。

 

 

モノ書きのパラメーターについてドラクエ風味に考えてみる

 

 モノ書きのパラメーターについてドラクエ風味に考えてみる。

 

 この考え方は書き手としての自分を認識する際にとても役に立つと思う。

 

 それでは、まず、基本のパラメーターについて。

 

 > HP:自分自身の「信頼度」、読者の「期待度」

 > MP:トリックや設定などの「引き出し」や「やる気」

 > 攻撃力:読み手の心を動かす「文章力」

 > 守備力:作品の設定や世界観の「矛盾点」や「批判点」

 

 ・ HP:自分自身の信頼度

 

 HPは自分自身の信頼度。簡単にいえば、これから面白くなっていくという「期待感の持続性」と言ってもいいだろう。この信頼度がなければ、読者はすぐ飽きて、読まなくなる。すなわち、作者としてのHPがすぐゼロになるわけである。

 例えば、一発屋芸人がすぐテレビからいなくなるのは、このHPがゼロになるからである。ずっと同じネタを繰り返されたら面白くなり、飽きる。そうなると、視聴者の期待感の持続性が失われ、信頼度がなくなるというわけだ。

 結局、モノを書くということは誰かに何かを伝えるということ。モノを読む人がいなければ、書いたものは意味がないもの。このHPには気を使っていきたい。

 

 ・ MP::トリックや設定などの「引き出し」や「やる気」

 

 MPは引き出し。推理小説で言う所のトリック、ファンタジー小説で言う所のキャラクター設定や世界観、などの所有の数をさす。

 まず、小説を書くのであれば、このMPを上げることから始まる。どうやって上げるかは人それぞれ。私の場合、本を読んだり、勉強をしたり、これを血肉にしようという意識で高めている。

 MPをある程度高めた所で、MPを消費しながら、モノを書き続ける。このMPが多ければ多いほど、文章を多く書くことができるはずだ。

 また、他にも「やる気」がMPと言ってもいいだろう。何かを表現したいという気持ちこそが文章の源。やる気、モチベーションも高めていきたいものだ。

 

 ・ 攻撃力:読み手の心を動かす文章力

 

 この攻撃力こそが作品の核となる。この攻撃力が高ければ高いほど、読者を次の1ページへと動かす原動力となり、この作品は面白いなと思ってくれる。

 語彙力、文法力、構成力、設定力、などなど、文章における総合的な力を束ねたものが攻撃力であるわけだ。

 

 しかし、どうやって文章力を高めていけばいいのか? それが問題となる。

 

 基本は何かから設定を借りて、その設定から文章を書いてみるのがいいだろう。童話から借りてもいいし、好きなアニメやゲームから借りてもいい。ただ、それは二次創作となるので相手から「武器」を借りたようなものでもあるので注意が必要となる。幾ら、語彙力、文法力、構成力が上がろうが、「設定」を描くことができなければ、いつまで立っても、借り物でしか物が書けなくなってしまう。

 だが、借り物だとしてもモノを書くことには代わりはない。なぜなら、それは作品として存在できることである。だから『借り物だからよくない』とあまり意識しない方が良い。ただ、それはパクリであることは意識した方がいいだろう。

 

 あと、攻撃力を上げても命中力がなければ、意味がない。命中力は流行のアンテナを感知できる観察力や、読者の無意識に眠る感性を察知できる力が必要である。プロはこの命中力が高く、読者の心を狙うのがとてもうまい。個人的には攻撃力よりも命中力を磨くことが大切だと思う。まあ、ある程度攻撃力をあげたらの話である。

 

 ・ 守備力:作品の設定や世界観の矛盾点や批判点

 

 守備力は、この作品にツッコミどころがないかという批判点。「これ、現実的でないだろう」と、ふと、素へと戻らせるウィークポイントでもある。

 例えば。恋愛ドラマで超お金持ちのイケメン御曹司が主人公であるブスな少女と恋に落ちるという話があるとする。はい、守備力がゼロの矛盾の塊で、読者からの非難が上がるだろう。こういう声が上がるのは、ブスな少女が自分と重ねたくもないという読者の気持ちにある。感情移入できるポイントにブスというファクターを入れたのは良いが、自分がブスだという認識を生み出し、「ありえない」という意識が高まってしまうからだ。

 イケメン御曹司が一番の矛盾じゃないの? という意見もあると思うが、この要素こそ作家の命中力であり、攻撃力。これが読者の心をわしずかみする武器と言える。こういう「ありえないけどあってほしい」という読者の気持ちを撫でるのも攻撃力であろう。

 さて、ここで、この設定でどうやって守備力を上げるべきか。私の場合、主人公を「ブスな少女」でなく、「無口でおしとやかな少女」と置き換えてみるとどうだろうか。そうすれば、主人公は感情移入できるキャラクターとなり、読者の気持ちが重なるはずである。今まで守備力が裸一貫だったのに、プラスへと転換するはずだ。

 

 ・ 守備力と攻撃力の関係性 

 

「守備力」はジャンルによって、ゼロに近い作品もあるし、高すぎる作品がある。どちらかというとラノベは他の小説と比べて守備力が低く、その代わり、攻撃力が高いと思う。ラノベで受けるには作家のパラメーターを攻撃力に全振りし、守備力は他の設定からパクるというのが良いのかもしれない。

 それを意識して書いているのか書いていないのかわからないが、攻撃力がありあまるラノベ作品が増加している。しかし、それは同時に守備力がゼロに近い作品が世に出ていることでもある。そういう作品はすぐ読者からの批判があれば、HPがすぐゼロになってしまう。そうなると、読者がみるみるうちに離れて行き、最後的には打ち切りへと追い込まれることだろう。

 それに、攻撃力の高い武具はMPをすぐ枯渇させる。妄想力や引き出しがいくらあろうとも、守備力がまったくない状態では、いつかダムにできた穴のごとく、音を立てて決壊することだろう。

 

 ・ 自分が上げるべきのはパラメーターは攻撃力? 守備力?

 

 モノを書くためには攻撃力を上げるべきか、それとも守備力を上げるべきか。それは自分自身の問題だと思う。そう言ってしまえば元も子もないが、攻撃力を上げるためには日頃から引き出しや文章を書かないといけないし、守備力を上げるためには勉強をしなければならない。それと同時に、引き出しを増やすために、MPを高めないといけない。こう考えると、日頃の練習をする際には、攻撃力と守備力のバランスよりも、攻撃力とMPのバランスが大事になる。結局、よく本を読む人間がよい文章を書くという理屈が通ることになる。

 まあ、個人的には守備力をあげつつ、MP、攻撃力を上げ、HPを高めていきたいのが理想だ。しかし、人間の気持ちというものはどうしても誰かから意見をもらいたがるもので、攻撃力に力を入れてしまう。つまり、どうでもいい作品につい話を盛り込んでしまう。せっかく貯めた設定やトリックをその場その場で使ってしまい、後々になって使えにくくなる。

 こうなると,筆は次第に止まってしまい、書くのが嫌になる。自分で自分の首を締めてしまうのが守備力ゼロの怖いところだ。

 そういうのがあると意識しつつ、何か面白いものを書きたいところだ。

 

今年1年は『冬』の年でした。

 2014年はどんな年だったのかは多くのバラエティ番組でやっていますし、どんな本を読んだのかというのも様々なブログでやっていると思います。ただ、今年を全体的に通して見ると『冬』の時期だったのではないかと思います。

 アナと雪の女王から始まった今年は4月から始まった消費増税によって財布の紐が固くなり、国民の消費意欲が全体的に減りました。ただ、それは消費増税前に駆け込んだ消費の影響もあり、これから迎える冬を備えるためのものだったと私は考えていました。

 2015年は2014年と引き続き『冬』になるのか、それとも、無事、『春』を迎えることができるのか? これからの経済に期待にしたいところです。

 

 それでは、2015年はどんな年になるのでしょうか? 寒い冬が通り過ぎ、ホントの春が来るのか?

 と、その前に、あなたにとって「春」とは何でしょうか? 桜の花が咲いているからただ花見をするだけであれば、それは春が通り過ぎ、夏も秋も通り過ぎ、気付ければ、また寒い冬を迎えることになります。

 季節の風と同じように服装を変え、心構えも変えていく。となると、「春」という時期を迎えるにあたって、心構えも変える必要があると考えます。

 ネガティブな冬を越えてポジティブな春になれるように、2014年の鬱積した気持ちは、残りの日で整理しておきましょう。

 それでは、今年もおつかれさまでした。来年もいいお年になれるように、気持ちを変えていきましょう。

ユーチューバーの視聴者とは誰か?

 

 今日、カフェで作業をしていたら、私の隣に主婦たちが座って、雑談をした。その内容はこどもの名前やネットで拾った画像など、とりとめのない話であった。

 どうでもいい話だなと思いながら、私は作業を続ける。

 ふと、そこで私はあることが気になった。

 それは彼女らの話ではなく、主婦が連れてきた一人のこどもだった。

 

 そのこどもは3,4歳ぐらいのこどもで、母親のスマホを借りてマリオを見ていた。マリオがスマホで登場するゲームなど聞いたことないので、プレイ動画だと察した。

 プレイ動画については色々と議論があるが、まあ、それは置いといて、主婦たちが雑談している間、そのこどもは次々とプレイ動画を見ていた。wiiuでプレイできないのかなと思っていたら、ちょっとあることに気づいた。

 

 もしかすると、ユーチューバーの大半の視聴者はこういうこどもじゃないのかな?

 

 3,4歳ぐらいのこどもにとって、母親のつまらない雑談ほど苦痛のものはない。母親の井戸端会議で待たされるこどもは暇で死にそうなものだ。そのとき、こどもがやることといえば、携帯ゲーム機で遊んでいるというのが、数年前までの風景だった。

 なぜ、大人はこどもにゲームを与えていたのか? それは、ゲームが子守の役割を持っていたからである。こどもは隙さえあれば、親と遊ぼうとせがむ困ったちゃんでもある。

 こどもの用件にいちいち付き合うヒマはない。自分達の仕事や時間を確保するために、こどもに携帯ゲーム機を与えていた、と、私は考える。親の雑談の横で携帯ゲームで遊んでいたこどもの姿が今でも目に浮かぶものだ。

 

 ところが、スマホが普及した現在において、その光景は少し減りだしている。こどもに自分のスマホを与えて、動画を見させる親が増えている。その理由はスマホの携帯性と、携帯ゲーム機を買えない経済的理由だと考える。

 スマホの携帯性というのは、いつも持ち歩いているという意味である。スマホはゲームや動画を見る以外にも、夫との連絡をするために、スマホをいつも持ち歩いている。現代人にとってスマホは必須アイテムと言えるだろう。

 友だちとカフェで話をしたい、だけど、こどもの子守もしないといけない。

 そういうとき、スマホは強い力となる。スマホの無料ゲームは怖いから、無料動画を見させた方がリスクも少ないし、何より夢中になって見る。いいことだらけだ。

 

 日本において動画サイトで再生数が伸びている動画は、そういうこどものヒマを潰すコンテンツが強いのだと、私は思う。勿論、テレビでオモシロイと思った部分を切り取ってアップロードする動画も強いし、有名ユーチューバーが上げている動画も再生数が多い。話題性のある動画とネット上のお友だち動画が日本で流行っている。

 親が安心して見させることのできるお友だち動画が流行っている現状は親の子守事情があるのだと、私は思う。

 こどもの子守の役目が携帯ゲーム機からユーチューブ動画へと移った瞬間を目の当たりにした。

 

 雑談を終えた主婦たちが外に出て行く時、プレイ動画を見ていたこどもが私にスマホを見せてきた。こどもはすぐ親に連れられて、外へと出て行った。

 はたして、あのコは何を言いたかったのだろうか。自分の好きなプレイ動画を見つけてはしゃいでいたのか。

 自分がプレイした動画ならぜひ見せてもらいたいが、他人がプレイした動画ならちょっとゴメンだ。なんだか悲しくなる。色々な意味で。

 

 

モノを書くモチベーションの上げ方

 

 最近、新しい小説を書き始め、自分の中でモチベーションが上がってきたなと思います。そこでトーシローの私がモノを書くモチベーションについて色々と語ってみます。

 

 1.自分なりのファーマットをつくり上げる。

 

 モノを書く上で大事なのは構成。起承転結、序破急、結論事実総まとめ、というように、構成を決めておくことです。いわゆる情報を入れるハコを作っておき、そのハコに言葉を書き込むようにすれば、何処に何を書けばいいのかわかってきます。

 例えば、お店の紹介の時に、この店に行く経緯→店構え→店内の様子→厨房の様子→実食→総まとめというように構成を考えれば、スムーズにモノを書くことができます。

 

 2.ネタの取捨選択

 

 モノを書く上で何を書くよりも何を書かない方が書く範囲を決めることができます。ラーメン屋の紹介であれば、読者は味や店内の混みよう、近くに駐車場があるのかなど、基本的な情報とそれプラス筆者の独特の観点を求めています。余計なことを書く労力を省き、必要な情報に力を入れてみるといいかもしれません。

 

 3.パレートの法則を考える

 

 イタリアの経済学、ヴィルフレド・パレートが発見した法則であり、全体の数値の大部分は全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという説。20%のことが80%のことを生み出しているという法則です。

 例えば、あなたの見ているブログ読者の20%が残りの読者80%を呼び込んでいるという考えてみましょう。80%はにわかですが、20%はきちんとあなたのブログに価値があると思っています。

 言い換えれば、20%の読者のために為になる情報、または心を動かせることを掛ければ、残り80%の読者を呼びこむことができます。

 80:20を意識して、文章を書いてみると楽に書けると思います。ただし、パレートの法則を鵜呑みにしすぎて、文章を手抜きしないように気をつけましょう。

 

 4.書く時は書かない。書ける時に書く。

 

 ブログや創作は趣味であると考えましょう。好きな時に好きに文章を書けば、広がりのある文になるはずです。アクセス数稼ぎを意識し、書かないといけないと強迫観念に襲われたら、文章にも粗や心の奥底にあり澱みがぷかっと出てきます。

 モノを書いていて、窒息しそうになる思いになるのなら、一度、文章を書かない休肝日を用意してましょう。

 

 5.自分が安心できるぐらいにネタを仕入れる

 

 おそらくこれは一番先に書くべき項目だと思いますが、私は敢えて、最後に持ってきました。

 モノを書くことで大切なのは何を伝えるか。その”何”は何処から仕入れるのか? 

 その”何”かはヒトにとってそれぞれありますから、それは自分で見つけてください。ただ、ネタの見つけ方を見つけておくと、心が安心して、これを伝えよう、あれを伝えようと前向きになります。

 街出かけた時、写真を多く取っておく。ネットで面白い画像を見つけたら、画像を多めに取っておく。散歩していて何かを思いついたメモを一言多めに書いておく。

 この豆な行動がモノを書く上で自分を支える力になります。

 20%のことが残り80%を作り出す。パレートの法則を信じて、ネタを仕入れてください。

 

 と、まあ、モノを書くモチベーションについてダラダラと書いてきましたが、やはり、何かを書きたいかがないと、うまく書けません。

 テーマを考えて、そのテーマを広げるように、モノを書いていきましょう。

 はい。