羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

第二回文学フリマ大阪に行ってみた。

 

 二日前、文学フリマ大阪があることを知り、今日、行ってみました。

 

 純文学もあればミステリーもあり、SFやライトノベル、詩集、果てにはサブカル系レビュー小説などなど、書店ではまずお目にかかることのない本が並んでいました。

 どんな本があったといえば、一言で言えば、ネット上にあるものが本になったというところかな。2000年代のごちゃごちゃしたホームページにあったものが本になったという感じがしました。

 会場の雰囲気はけっこう落ち着いていて、賑わっている本屋というイメージが強かったです。普通の即売会は一度行ったことがありますが、それよりも、落ち着いた感じがしました。多分、文学というジャンルは10代のコが行くものじゃなく、また、精神年齢の高いヒトが集まっていたからそういう空間を作っていたのだと考えられます。けっこう特殊な空間だったので、行ってよかったと思います。

 戦利品は一冊。スチームパンク的な作品を購入しました。表紙が煙臭い雰囲気と、中身も重厚な文章で見えたので手にとってみました。面白そうというよりも、雰囲気重視で買ったというのが理由です。

 他にも阪大のループものの本やディストピア作品について書かれていた本があり、購入しようと思いましたが、ループものの作品はけっこう見ていて、ディストピア系も最近、ハーモニーを読んだばかりなのでお腹いっぱいということもあり、今回はパス。すいません。

 しかし、阪大のミステリー作品が完売していたのは少し気になる所、かなりのミステリーファンが列を作っていたのかなと思いました。

 

 さて、そんな文学フリマ大阪でしたが、見本本を読んでいて、みんな、好きな本を作っているんだなと雑感。予算と費用とにらめっこしていたはずですし、自分の作った作品を読んでもらおうと色々と努力をしたと思います。ただ、客層の年齢が落ち着きのある大人ばかりということもあり、勢いで本を買うヒトはあまりいなかったと思います。となると、そういう大人向けの作品を書いてみるか、また、敢えて、書き出しを見て、その続きを気になる本も書いてみるのもいいかもしれません。

 しかし、文学フリマは世の中に出したいと思う本を発表するのがコンセプトだと思いますし、読み手に合わせると自分の書きたいものが見えなくなる可能性があります。クリエーターさんは自分の持ち味を見つけるために、文学フリマを利用するのもひとつの手かもしれません。

 勿論、読者の皆さんも、特別な本のある文学フリマに一度、行ってみるのもいいかと思います。ネットで出回っている情報に依存することなく、自分目線で本を選ぶ価値観が養われる貴重な体験ができるはずです。

 

 追伸.帰りの切符をなくして、また切符を買い直した……、よくモノをなくすな……

 

今日のこの一冊、ビブリオトーク【ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義】

 

 ■ ビブリオトークとは?

 

 この本を読者に読ませたいと一点のみで相手に薦めるブックレビュー。

 本を読んだ感想よりも企画色が強い本の紹介である。

 第一回目のビブリオトークは、【ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義】なり。

 

 ■ 【ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義】

 

 大学本といえば、“生協の白石さん”が有名であり、学生達の一言に丁寧に返す白石さんの人柄が学生達の心をわしづかみし、それが書籍化された本である。しかし、この本は元々、大阪大学ショセキカプロジェクトで発行されたものだ。

 大阪大学ショセキカプロジェクトとは、大阪大学出版会の協力のもと、阪大教員による魅力的な書籍づくりを学生が企画提案し、その後の広報・販売まで学生自身が全面的に関わるプロジェクトのことをさす。その企画の中で選ばれたのが『ドーナツの穴だけを残して食べる方法』であり、阪大のブレインたちがその難問に挑んだ。

 元々、『ドーナツの穴だけを残して食べる方法』はネット上でよくやり取りされるネタである。それを12人の阪大教授が切り込んだら、こうなった、いや、どうしてこんなことになってしまったんだ!? というのがこの本のテーマである。

 

 ■ この本はドーナツの穴のように見える穴ではなく、とても深い。

 

 私自身、この本を読んだキッカケはとあるウェブニュースでたまたま目にして、それが気になったので、一度読むことにした。

 

 感想として、この一言に尽きる。

 

 強引。

 ゴーインに強引。

 

 映画のラストシーンで好きでもない許嫁と結婚式を上げている教会へと入って、その花嫁をかっぱらう主人公のような強引さがある。

 連想ゲームでりんご、ゴリラ、ラッパ、パンダ、だんご、……という具合でりんごについて話しているのに、なぜかだんごについて語り出すような本である。

 

 おかしい?

 いや、ナニモオカシクナイデスヨ、ハイ。

 

 最初は物理学的、数学的方法を利用して、ドーナツの穴を残そうとするだが、だんだんとドーナツの穴を残すことよりも、『ドーナツ』と『穴』というキーワードで教授たちが専攻する学問を紹介する本へとなる。

 確かに、この本はドーナツの穴を通じて、各々の教授が受け持つ学問について話す本なのだが、読んでいくうちに、ドーナツの穴だけ残して食べる方法から、教授の専門領域へと“どうやって、話を転がそうとするか”という教授の必死さが伝わる本へとなっている。

 淡々と、得意分野の話を語られて、「ああ、そういう話もあるんだな」と、納得する。読み終わった後、ゆっくりとカフェテリアでアイスコーヒーを嗜んでいると、「いや、チガウがな!」と、本にツッコミを入れるそんな本である。

 

 ■ 穴からのぞく大学講義のタイトルは伊達ではない

 

 この本を最高に楽しんで読む方法は、「ドーナツの穴をそれぞれの学問を用いて、ドーナツの穴だけを残す方法を読み解く」のではなく、「教授たちがドーナツの穴を残して食べる方法という言葉を用いて、いかに、ドーナツの穴からかけ離れた学問の内容を紹介する大喜利ショーを楽しんで読む」ことである。

 ドーナツの穴を残して食べる方法を正当法で切り込む教授もいたり、ドーナツの穴は何のその、取り扱っている学問を紹介する簡単な大学講義をして、最後はドーナツの穴もこれに似ているで落とす、上方落語かというツッコミを入れる話もある。

 あくまで、これは学問入門書であり、真剣にドーナツを穴だけ残して食べる方法を提示していない。(一応、納得できたのはトポロジーを使った方法だが、トポロジーを知らない人間が読んだら、ありかよ、というツッコミが入るはず)本気で、ドーナツを穴だけ残して食べる方法を期待して読んだら、裏切られる。そんな本だ。

 個人的には教授たちが専攻している学問を紹介する“強引さ”を楽しんで読んで欲しい。偉い人はこうやって話を煙に巻く方法もわかってけっこう楽しめる。

 小難しい学問入門書ではなく、トリビアの泉を見るように読むユーモア学問入門書としてオススメの一冊だ。

 

 ■ 私が考える『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』

 

 さて、この本を読んで、私自身、ドーナツを穴だけ残した食べる方法を見つけた。

 

 1.まず、ドーナツの外周を食べます。

 2.次に、ドーナツを縦に切ります。

 3.これでドーナツは消滅し、半ドーナツとなりました。しかし、ドーナツの穴は2つ残せました。

 

 おい、これはドーナツも存在しているじゃない! という声があるはずだと思う。

 しかし、ドーナツは縦に半分切ったことで半ドーナツとなり、ドーナツであったものは半ドーナツへと変わってしまった。また、命題の大前提となっているドーナツの穴は維持している。

 半ドーナツは元のドーナツではない。だが、元のドーナツの穴は存在している。

 ドーナツであったものは消滅したが、ドーナツの穴を確保しており、加えて、ドーナツを食べたという行動もこなしている。

 これで、ドーナツを穴だけ残して食べる難問は無事クリアしたのだ。

 

 ただし、ドーナツの穴の深長は半分になっているので、正確にはこの穴は半ドーナツの穴ではないかという指摘がある。ドーナツの素材が残っているので、ドーナツの穴だけ残さず、食べ切れたとは言えない。

 

  そういうツッコミが絶対あると思う。

 

 はい。

 この本は学術的なウンチクがなければ、そういうツッコミが自然と出てくるとんち本です。

 はい。

 

ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義

ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義

 

 

俺タワーがスゴく気になる。

 

 ブラウザゲームは嫌いである。

 ついでに言えば、スタミナシステムも嫌いである。

 ゲームというものはリアルタイムを使わず、プレイヤーの入力した情報をそのまま反映してもらいたいのである。

 そんな私が最近、目に付いたゲームがある。

 

『俺タワー』

 

 なんだろう。俺とタワー?

 それって、「バベルの塔」か何かか?

 それとも、往年の名作ゲーム「tower」の男性用ゲームか?

 

 気になった私は配信元であるdmm(この時点でどんなゲームかはわかるのだが)へ直行する。

 

 ――ああ。美少女+アトリエゲーね。

 

 ゲームシステムは色々な場所で探索しながら材料を集めて、自分だけの塔を建設するものだ。この手のゲームはタワーディフェンスゲームというのが相場なのだが、「俺タワー」という名前でアトリエゲーはけっこう珍しい。

 しかし、これはかなりの危険なゲームだと第六感がささやく。

 ブラウザゲーム+無料プレイ+材料集めというだけで、メズドラーマ・エムルドアから源氏シリーズを盗むよりもはるかに確率に低いレアドロップアイテムが存在しているということだ。勿論、これは黒本を信じた場合の確率である。

 とはいえ、この手のアトリエゲームは城や街、お店を発展させるのに対して、なぜか塔を作り上げる。古来より塔は崩壊、災害などを象徴するタロットのアルカナであり、それに加えて、天に届く塔を作ったことで神の怒りに触れたバベルの塔をイメージする。一生懸命作っても、何らかのトラブルによって、崩落する可能性を示唆する。

 

 しかし、見方を変えれば、このゲームは塔だからこそ、面白いシステムかもしれない。

 ゲームシステム的に見れば、塔を拠点にすることで、建設がとても見やすくなっている。この手のゲームは街のマップを全体的に動かさないと何処にどんな店があるのかわからないが、マウスホイールを上下回すだけで何処にどんな店があるとひと目でわかる親切設計になっている。

 まあ、これは説明書を見ただけの話であり、実際にやってみると色々とめんどくさい所が出てくるかもしれない。……が、このゲームは私とフィーリングにあうゲームかもしれないと、第六感その2が訴えかけている。

 それは私自身、塔の持つ儚い美しさに惹かれているからだ。

 ハウルの動く城のような、寄せ集めでありながらも崩れそうで崩れないバランスこそが、塔が持つ儚い美しさなのであろう。プレイ途中のジェンガ、ピザの斜塔、塔とはかくして、崩れそうで崩れないものこそ、まさしく至極である。

 

 さて、前置きは長くなったが、俺タワーをやってみることにする。

 dmmは始めてなのでアカウント登録し、名前や生年月日を入力し、いざ、俺タワーへ。

 

 

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  ……DSの「tower」でもやるか。

 買ったことないけど。

 

 

宿題代行者ってカッコいいよね

 

 こどもの代わりに宿題をする宿題代行者という仕事が流行っていると聞く。彼らはこどもにとってある意味正義であり、夏の風物詩である蝉の鳴き声と同じぐらいわずらわしいものを片付けてくれる力強い存在だ。

 夏休みの宿題といえば、漢字の書き取り、算数ドリル、読書感想文に自由研究などなど、学校の宿題と違って、長期休み特有の不思議なものを持っている。それは先生から言われたことを復習する宿題とは違い、先生がいなくても成立する宿題だからだ。となると、問題集の裏側にある解答をそのまま書き写せばいいし、自由研究もホントに自由なことをやってもいいし、読書感想文は自分以外のヒトに手伝ってもらってもいい。そう考えたら、夏期休みの宿題はホントに必要なのかという話になってきそうだ。

 元々、学校がこういった、夏休みの宿題を渡すのはこどもの学力の向上や宿題を通じた心の育成を狙いにしているからだろう。宿題を誰かにやらしても、こどもは成長するはずもなく、学力も上がるはずもない。

 しかし、夏休みの宿題を真剣に取り込めば、それで学力が上がるかと言えばそうでもない。夏の間、学力塾で理解できていない所をきちんと復習した方が学力は上がるはずだし、そのコのことを理解している人間から特別な課題を渡した方が、こどもの才能がすこやかにのびるはずだ。つまり、学校側が渡される宿題よりも、学力塾に行かしたり、こどもの才能を伸ばす教育を施した方がこどもにとってプラスなはずだ。となれば、夏休みの宿題など、目の上のたんこぶであり、夏の憂うつをもたらす大きな問題であろう。

 したがって、宿題代行者はありかといえばありって話になる。学力塾で勉強したいのに、学校からの宿題があるから勉強する時間が奪われるなんて本末転倒である。サッカー選手になるための練習も、夏休みの宿題によって集中力を奪われてしまえば、ただの障害である。

 友だちと遊ぶ時間もゲームする時間も、夏休みの宿題が邪魔をする。こどもから見て学校から送られてきた夏の宿題など、絶対的な悪者しか見えない。そんな悪者をとっちめる宿題代行者は、こどもたちにとって、あってほしいヒーローなのだろう。

 とまあ、こどもを主観的な見方から宿題代行者を持ち上げたわけだが、世間という立場から宿題代行者を見たら悪者であろう。それはこどもに“ずる”を与える方法であり、お金で問題を解決できる方法を知るキッカケでもある。そんな“ずる”を知る機会になるのが、宿題代行者という存在でもある。

 だが、この宿題代行者はタダでやってくれるサービスではなく、無論、有料サービスである。宿題代行者に支払う費用は1ヶ月500円のおこづかいしかもらえないこどもに到底支払えるはずもなく、親が支払う。お母さんに預けたはずのお年玉貯金がこんなところで使われているなんて知ったら、逆に、こどもは夏休みの宿題を真剣に取り組みそうではある。

 さて、ここで一つ大きな疑問がある。それは宿題代行者に宿題を任しても筆跡鑑定や文章力からそのコが宿題をやっていないことがバレるのではないかというものだ。

 結論から言って、学校側はその不正を知ってもその不正を認めるしかないだろう。仮に、筆跡鑑定からこどもの“ずる”がわかっても、学校の先生はモンスターペアレンツに「本人が宿題をしていない」と主張することができるのだろうか。渡された宿題は不正なものであっても、モンスターペアレンツに強く言うことができないないはずだ。昔なら、学級会で夏休みの宿題忘れたコを黒板の前に立たせて、恥をかかせて宿題をしないことはいけないことと自覚させるが、そんなことをしたらあらゆる方面から糾弾される。

 こどものためにならないとわかっていても、強く言うことはできない。煮え湯を飲まされるだけ飲まされる。学校の先生は良心の呵責に痛みを感じながらも、宿題をきちんとやってきたと認めるしかないだろう。

 だからこそ、夏の宿題をこどもにきちんとこなすかどうかは親に掛かっている。宿題代行者に任せて“ずる”を教えるか、それとも、夏の貴重な時間を潰させる宿題をこどもにさせるのか。遊ぶだけの時間があるのなら夏の宿題をやった方がいいと思うし、こどもの可能性を引き延ばしたいのであれば誰かに宿題を任した方がいい。ただ、悪い選択肢与えることで、こどもに悪い選択肢を選ぶこともできる教育を施したことは、自覚して欲しいところだ。

 

 こどもの将来を不安定にさせたくないのなら宿題代行者を雇わない。「宿題は自分でやるもの」と言っても、それでこどもは納得してくれるかは不明ではある。

 しかし、不正な方法を知ったらそれをやりたがるのがこどもである。こどもにとって不正はチャレンジなのだ。夏休みの宿題は不正チャレンジが行われている会場でもあるのだ。

 

 そういえば、私が小学生の頃、優等生のクラスメイトに宿題を代わりにやってもらっていた友だちがいて、大人になってからも感謝していたな。宿題代行者のクラスメイトは、そのコにとって記憶から忘れられないヒーローだった。

 夏休みの宿題も夏の一つの思い出、自分がやるか、誰かに任せるか、それとも「宿題をわすれてゴメンなさい」と言うか。こどもが選んだ選択肢でどんなことが起こるのか、それを知ってもらうのも、教育だと思う。

 ……まあ、7月20日や9月1日から夏の宿題をやった私が言うのもなんだけどね。

 

  ※ 9月1日、加筆修正。見直しができてないな。

 

今日、加速度のついた自転車に撥ねられて考えたこと

 

 今日の午後5時10分頃、ケンタッキー前に自転車に撥ねられた。

 相手はイヤホンで電話しながらタバコを吸っていたヤセ型のオトコだ。

 タバコを吸っていたためか、その自転車はブレーキのかからないまま、私の太ももを轢いた。

 あまりの痛み、私は「何してるんですか」と怒気をこもった声で聞く。

 すると、相手は――、

「オレがドケと言ったから、オマエがそっちに行ったから悪いんやろう」

 と言う一点で、話にならなかった。

 確かに、相手はドケと言った。しかし、1秒もかからないうちに、車輪はふとももに直撃された。

 いつもは温厚な私もこればかりはさすがに怒った。

 

 警察に行こうと自転車をつかんだ。

 これは相手を逃さないための行動であり、自転車を奪うものではない。

 しかし、「自転車をつかむな!」と、痩せ型のオトコは叫んだ。

 私は相手の意見を聞かず、ずかずかと警察署へと向かった。

 だが、相手は自転車を手放して、「警察まで運べ」と舐めかかる。

 これ以上、相手をなめかかって、ケンカになると思い、私は「もういい」と言って、相手を自由にしてしまった。

 

 相手にナメられた挙句、相手を逃してしまい、失態を晒してしまった。情けない。

 前輪に当たった右ふとももが今もヒリヒリと痛んでいる。

 一応、派出所に警告なしの被害届を出した訳だが、正直、私を轢いた容疑者は捕まる見込みはないだろう。

 

 この事件で学んだことが3つある。

 1つ目は、すぐ名前を聞くこと。

 すぐ名前を聞けばそれでよかったが、感情的になってしまい、コイツを警察にワタシてやろうかと考えてしまった。これがダメだ。相手はパニックになっているうちに名前を聞けばよかった。

 もし、時間を置いて、名前を聞くことを思い出しても、「なんでオマエに名前を言わんとアカンの」というだろう。

 名前を聞くことは大事だ。相手を考える時間を与えずに、すかさず聞いて、確認する。これが大事だ。

 

 2つ目は、ナメられないこと。

 感情に毒されて、「何してるんですか」と言ってしまい、相手に構えさせる時間を作ってしまった。そこから相手は開き直っていて、自分は悪くないと一点張りだった。

 この時、私自身、感情的になっており、名前を聞くことよりも相手を警察に行って、警察の前に謝って欲しかったというのが私の本音だった。自分のしたことは悪いことだと自覚して欲しかったが、この言い回しだと攻撃的な言葉のため、相手を構えさせてしまった。

 

 最後に、自転車に撥ねられた時に気をつけるのは、“感情的にならない”こと。

 癇癪持ちではないのだが、この時ばかりは感情がはじけて、相手の名前を聞くという一番大事なセオリーを忘れてしまった。情けない。ホントに情けない。

 どんなことがあっても、理性的な判断ができる心を持ち合わしたい。感情的になっても相手の名前を聞くという常識を頭に置いておきたいものだ。

 

 もし、明日にでも自転車に撥ねられたどういうふうに対応できるか。

 特にタバコやイヤホンをつかながら運転する人間をどうするか。

「オレがドケといったのだから悪くない」

「オマエがそっちに避けたのだからオレは間違っていない」

「時間はないんだから、早くしろよ」

「なんで警察にイカンとアカンの」

 開き直った相手は無敵だ。なんでもかんでも正当化しようと行動する。

 しかも相手はタバコを持っている。そのタバコで根性焼きされる可能性もあるのだ。

 そんな相手とどうやって対話するか。

 言うまでもなく、歩道は歩行者優先である。裁判に争っても勝ち目がない。

 しかし、そんな常識も持ちあわしていない人間は、基本、相手を見下し、相手をいらだたせることばかりする。話ができない。

 そんな相手とイメージトレーニングしてみよう。どうなるか。

 

 実際の話、私は泣き寝入りしてしまい、一人で警察者へと行くことになった。

 被害届を出したが、相手の名前がわからない。これは大きなミスだ。相手に気付かれずに写真を取るか、名前を聞けばよかった。今でも後悔している。

 もし、スマホタバコをしているヒトがいるのなら、やめてほしい。というよりも、一体どうやって、電話しながらタバコを吸っていたのか。毘沙門天や釈迦ならわかるが、両手しかない人間がどうやって自転車を動かしたと疑問に思う。

 ああもうこれ以上、考えるのはやめよう。なんか、みじめになりそうだ。

 

 まあ、あの歩道にはこどもや年寄りが居たから、私にあたったというのは不幸中の幸いか。もし、私がそこにいなかったら、こどもと年寄りが、加速度のついた車輪の下じきになったのかもしれないと、太ももと一緒に自分自身を慰める。

 

 ……でもでも、意味もわからず、いきなり撥ねられたことが一番、悔しいです。

 

逃避文学と宿り木文学

 

 よくマンガやアニメはこどもの物であり、その本質は現実からの逃避と言われている。逃避は強いストレスの緩和するために、人間が本能的に所有する機能である。

 人間が逃避を覚えるのは外界から与えられるストレスに耐えられない時である。勉強を例に取ろう。勉強をしたくないのに、勉強をしなければならない。このしたくもないのにしなければならないのがストレスとなり、このストレスとの付き合いでヒトの個性が決まってくる。勉強をしなければならない理由を追い求める” 探求 ”を自覚すれば、勉強と”対抗”することができるのだが、大人はこどもがその理由を理解できないと思い込んで、「やらないとダメ」というトンチンカンな解答で区切る。そのため、こどもは「勉強はやらないといけないもの」と答えを打ち出し、勉強は外界から与えられるストレスと結論付ける。

 とはいえ、こどもは勉強というものは社会的にしなければならないというものを空気から読み取り、きちんとやらないといけないものだと感づいていく。だが、勉強は楽しくなく、面白くもない。心から湧き上がるストレスと外界から押し付けられるストレスが板挟みを覚える。その板挟みを跳ね除けて勉強できればいいのだが、ストレスキャパシティを超えてしまえば、勉強が手につかなくなり、何か別のものがやりたくなる。逃避と呼ばれる現象が現れる瞬間だ。

 逃避をするために何かで遊んだり、妄想の昇華、すなわち、マンガやアニメ等を視聴することでやりきれないストレスをうまくやりこなす。他にもゲームで仄暗い感情をぶつけたり、読書をすることで荒波になった感情を凪へと戻したりもする。これらの逃避は現実世界から目を背け、乱れる心を落ち着かせるのが本質といえるだろう。

 この逃避は大人になっても行われる。勉強を仕事、家庭、恋愛などに置き換えても成立する。本当ならこうしたいと希望が募っていたのに、現実ではその希望を妥協しなければならず、希望から妥協へと削られたストレスのカケラを片付けないといけない。このストレスを片付けるために、こどものころから慣れ親しんだ逃避行動をするか、大人になって覚えた酒か喫煙などでごまかすしかない。

 ところが、逃避がめんどくさくなり、すべてを失ってもいいから目の前にある問題をなくそうとする”開きなおる”という行為が出てくる。それは地獄への道づれを考える一種の破滅的行為でもある。開き直った人間ほど、怖いものはない。こんがらがる頭から見つけた、たったひとつ冴えたのやり方をする人間の攻撃的逃避は、もはや兵器としか言い様がない。

 

 さて、逃避について色々と語ってきたが、逃避というのは先ほど言ったとおり、現実世界から目を背け、乱れる心を落ち着かせるものと提示した。心理学や精神分析学では逃避はもっと別のとして捉えているはずだが、今回はそう定義する。なぜならば、人間が生まれつき持っている本能としての逃避は実のところは、宿り木的な役割を持っているのではないかと提唱するためである。

 逃避の本質をもう少し良く解釈すれば、小鳥が羽ばたき疲れた羽根を休める宿り木的な役割を持っているからである。問題から一度離れ、客観的にその問題を見て、反省点と改善点を探した上で、再びその問題に取り組むことができれば、それは逃避ではないはずである。私は一度離れた問題に取り掛かる行為を、小鳥が羽根を休めて、再び大空へと挑む意味を込めて、” 宿り木 "と呼びたい。

 そう考えれば、先ほど、逃避と言っていたものは心と現実とすり合わせる羽根を休める時間と言えるわけだ。" 宿り木時間 ”とでも呼ぶべきか。この宿り木時間を経ることで、勉強のストレスを受け入れる準備する時間ができ、勉強と対抗する覚悟ができあがるわけだ。

 もし、ヒトに”宿り木時間”があるのならば、私はこの宿り木時間を与えられる小説を書いてみたい。SFやミステリー、ファンタジー小説は逃避文学(エスケープ・リタラチャー)ではなく、物事を別の角度から見ることができる宿り木文学になるのではないかと思うわけだ。

 事実、羽根守の羽根は、宿り木の羽根を守るペンネームの意味合いもあり、宿り木文学を書こうと考えている。ヒトの意識が現実世界から本の世界へと行き、再び現実世界へと戻る時にちょっとしたおみやげを渡そうと思うからである。

 しかし、そんなのいらんがなと思うヒトは多い。ムダな時間をムダなことして楽しむことがエンタメの魅力である。だが、ムダだと思っていた時間が実はけっこう有意義だったと思うとけっこう嬉しいものだ。そういうものを書いてみたいものだ。

 

 一人旅でみやげ話ができれば、最高の旅であったと言える。

 普段の生活では出会うことのないモノやヒトと触れることで、自分の中で何かが触発されて、新たな価値観を手に入れることができる。心にちょっとした化学変化ができあがって、普段とは違う角度から物事が見える視点ができあがる。

 それが私の思う”宿り木文学”、旅は必ず自分のいる場所へと戻るものだから――、

 

 ――と、言ってみる。

 

 

私が、読書感想文が嫌いなワケ

 

 誰しもが思ったことがある。

 ――なぜ、読書感想文はあるのか?

 読書感想文の狙いは、本の感想はもとい、感銘を受けた部分を引用し、それを元に自分の考えを意見するのが目的とされている。本の「感想」というよりも、本の書いていることをを引用し、自分の考えを訴える「論文」を作り上げる文章力こそ、読書感想文側が求めている答えである。

 とはいえ、読書感想文はもっと自由に書いてもいいと思う。それこそ、アニメを題材にした二次創作を書くように、小説に出てくるキャラクターや世界観を題材にした二次創作小説にしてもいいはずである。しかし、読書感想文は400文字づめ原稿用紙5枚という文字数制限があり、ちょっとしたショートショートを書くことも難しい。息苦しい論文口調の感想文になってしまうわけだ。――まあ、息苦しい論文口調の感想文になるわけは、原稿用紙のマスを埋め尽くすためにわざと、「思いました。感じました。考えられました」という、丁寧語という三種の神器の一つを行使しているわけだが。なお、あとの二つは、あとがき、と、コピペ、である。

 2000文字以内で書けることは本から一つの主題を読み切り、その主題を自分の意見や経験を交えて、自分の意見を主張することぐらいしかできない。しかも、学校の課題ということもあり、その意見と経験は学校側に迎え入れてくれる道徳的なモノでなければならないと、こどもは思い込む。よって、夏休みの課題として取り入れられている読書感想文は、エンジョイしたい夏休みを転ばせる大きなシコリとして、こどもたちを悩ませている。

 別段、読書感想文を書かなくても人生において何の問題もない。読書感想文コンクールに選ばれても、誰も覚えていないというのが現実である。それでも、読書感想文を書かないと、あれだけ長い夏休みを何のために過ごしてきたのかと人間性を否定されるがため、カラッポな脳みそから文字をぞうきんのごとくしぼりださないといけない。

 読書感想文を書くのはとてもつらい。一番、つらいのは読書感想文のために読む小説である。こどもにとって、動きのない文字を読まされても面白くない。それならマンガやアニメで感想を書いた方がいいはずだ。私はディズニーのクリスマス・キャロルを読書感想文として書くことで、読書感想文から逃げた。

 本を読むことが多くなってきた現在において、読書感想文は書いてもいいかなと思うことが多々ある。推理小説の犯人をバラしたり、ホラー小説のオチを言ったりして、先生を悔しがらせたいと夢見ることがある。事実、読書感想文はなんであれ、先生はその生徒のために、ちゃんと、読んでくれるからだ。ブログやツイッターを閲覧する人間よりも、その生徒の気持ちを共感し、または違うと叱ったり、声を返してくれる。

 読書感想文は先生、つまり、自分よりも上の大人のヒトと文章的な対話ができる機械である。ありあまる夏休みの時間を使って、2000文字以内で本の感想を伝える。論文的な書き方でいい。口語的にラフに書いてもいい。自分を良いコと評価されたいと道徳的なことを書いてもいい。ただ、先生という大きな存在と、本の話ができる、チャンスということを忘れてはいけない。

 今の読書感想文はそんな本の話をする機会を失った傀儡制度にすぎない。

 本の感想を通じて、自分の意見を言う。

 なんだよそれ。自分の意見って、本の言葉を引用しないと言えないのか?

 それって、誰かの言葉を引用して、相手を非難するヤツと一緒じゃないのか? 

 私にとって、読書感想文が嫌いなのは、そういうこと。モラル的なことをカタチ付けるために無理やり書かせる。読書感想文はこどもを道徳的な人間に擬態させるために、ネコカブリさせる第一歩を踏ませている。

 それで書く力を生み出せるはずがない。本を読む力をろくに教えていないのに、本の感想を書いてください、それも世間に見せても恥ずかしくないご立派なモノを見せてくださいと言われても、無理って話だ。文を読む力が発展途上中のこどもに、そんな難しいことを与えるのは厳しすぎる。小学生は読書感想文を書くのではなく、本を多く読んだ! という評価システムの方がいい。学力がつき、語彙が増えた中高生にこそ、読書感想文を書かせるべきだ。

 とはいえ、中学生高校生は読書感想文が一番ダルくなる歳だ。小学生で経験したカタハマリな道徳観を踏まえた上で本を読んだ感想をネコカブリ気味に書く。メンドクサイ。誰かの書いた読書感想文をコピペしたがるのもわかる。自分の読んだ本の感想がヒトと違っていたら怖いし、不安定になる。普通の学生と違うってだけで、思春期特有の恥ずかしい感情に刺激されて、モノがうまく書けないのだ。

 でも、その読書感想文でいいと思う。少なくともちゃんと本を読んで自分の声で書いたのならそれでいい。変にいきがると、先生と対話ができる機会をなくしてしまう。大人になったらそんな機会は何処にもないのだ。

 

 と、原稿用紙400文字5枚分、つまり、2000文字以内で、読書感想文の読書感想文について書いてみた。読書感想文をコピペやあらすじですませて、自由な夏休みを謳歌するのもいいが、読書感想文は自分を読んだ小説を声にする機会でもある。

 そんな読書感想文に本気にぶつかってもいいんじゃないかなと、ブログで書いた。読書感想文に悩んでいるのなら、一度、ぶつかって、笑われて、撃沈してみるのも乙なものだ。キミのことを知ってもらう本気の読者がいるのだから。