羽根守のハネブログ

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――血反吐の『自己愛』マラソンで自己を肯定する。

 

 一週間前、なんとなく図書館で手にした一冊の本がある。 

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

 

  タイトル通り『自己愛』について書いてる本である。感想についてはあまり話したくない。感想としてはなんというか“距離が近すぎる”。STAP細胞事件や西鉄バスジャック事件などなど世間を驚かした事件を『自己愛』をテーマに切り込んでいるのだが、断定的であり、それ、きちんと調べたの? と、言いたくなるところもある。アマゾンでの評判も描き下ろしだと言うのに芳しくなく、作者のクセが出てしまった一冊である。

 仮に、これをビブリオバトルでビブッてください(この本をみんなに読ませてください)と言われても、ビブりポイント(この本を読ませたいポイント)が思いつかない。「『自己愛』は危険です! 『自己愛』には気をつけましょう!」としか言えず、みんなをビブビブとビブらせることができないのである。

 本の内容についてあまり誉めていないように思われるが、意外といいことは書いてある。でも、作者と題材との距離が近すぎて、まるでそこにいるかのようにレポを書いてるんじゃないの? と、思ってしまい、ちょっとイライラする。そういう意味では危険な本とも言えるため、悪評高いのも納得である。そんな偏見を外した上でこの本を読めば、作者の言いたい『自己愛』についてわかるかもしれない。

 

 と、本の感想はこれぐらいにして。

 

 今回、『自己愛』について調べていたのは、最近見かけるニュースから『自己愛』に関する事件が多いと感じたからである。

 ここで『自己愛』というのは自分を賛美すること。つまり、「自分はまっとうなことをしているから何も非難されない」と、自分を正当化することだと、規定しておこう。

 自己の後に続く言葉と言えば、自己アピール、自己演出、自己評価、自己満足、自己中心的などなど、今の日本語、自己+単語で様々な言葉ができあがる。これだけ“自己”という言葉にこだわりだしたのは、やはり“自己責任”という言葉が現代の日本人の胸に突き刺さったからだと思う。

 まあ、自己責任論に関してとやかく言った所で『自分のやったことは自分のケツで拭け!』というのがオチなので、それについては何も言わない。ただ、それまでは『ジコチュー』と会話の中で軽くいじられる程度でしかなかった“自己”が、現実問題に関わる『自己責任』へと重くのしかかるものになってしまった。重たくなった“自己”を克服するために、ひとびとはビルディング、自己能力を高めるようになった。

 今の日本の社会が“自己”を形成し、それを売り込む地盤になっている。うまく自己を売れればそれでいいのだが、残念ながらそれをすべて買ってくれるヒトはいないのが現状である。

 それに加えて、うまく“自己”を形成できない問題が出てくる。経済的問題、家庭的問題、教育的問題、就活的問題などなど、現在の人間はどうしても“自己”を盛りがちだ。

 そして、その盛った“自己”がズレてしまい、それが虚飾へと落ちる。誰かにそれがウソだと指摘されたとき、「すいませんウソです」と認めればいいのだが、「いえ、ホントです」といつまでもウソを認めない。それを自分が傷つかないためにウソをついている自己愛まみれの人間だと指摘されるわけだ。

 ただのウソならかわいらしいが、そのウソには生活がかかっているのだからタチがわるい。けれど、今の社会土壌では“自己を盛る”のが普通なのである。しかし、あまりにも“自己”を盛りすぎて地盤沈下を起こしているのも珍しくない。

 自己を盛ることがコントロールできず、それがウソだと指摘される。それが世間で言う「あのヒトは『自己愛』が強いから」という批判につながっていると見ていいだろう。

『自己愛』が作られるのは、そのヒト自身が自分を傷つけないためにウソをつくのはなく、周囲の環境のプレッシャーと対抗するために作り上げてきた“自己”をうまくコントロールできず、盛った“自己”がずれ落ちて、醜い部分がさらけ出してしまい、最終的にそれが表面化した“自己”だと考えられる。一生懸命ガンバって作り上げたビルディングが崩れたのだ。

 表面化した“自己”が醜いものと思えるのは、その人間の実力不足と喪失感を目にしたからである。ところが、当事者はまったく気づかない。それもそのはず、盛った“自己”はトカゲのしっぽのようなものであり、切り落とすことができる。しかも、トカゲのしっぽと違って神経がつながっていないからそうそう痛みを感じない。けれど、見ている側は違う。盛った“自己”もそのヒトだと見ているのだ。

 

 社会でうまく生活するために“自己”を作りあげなければならない。ただ、“自己”を作るには何かと盛らないといけない。それがウソなのか、自分の実力で勝ち取ったものなのかは、そのヒト次第。ただ、あれもこれも一人の人間にやってもらいたいとお願いする社会と対抗するためには、それなりの”自己”を持たなければならない。

 SNSを駆使して自己演出。資格学歴で自己アピール。

 誰もが納得させる“自己”を見せることで、自分が存在できる。けれど、その“自己”を手にするには何かと時間もかかるしお金もかかる。しんどい。つかれる。おわりがみえない。

 ――血反吐の『自己愛』マラソンで自己を肯定する。

 と、そんな視点で社会を切り込んでみたら絶対鬱になるのでやめましょう。責任は持ちません。

 

 自己愛について考えたら、自己愛モンスターになってしまった! というオチでおわりにしてください。はい。

 

 

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

 

 

 なお、この本はどうやってもビブレませんのであしからず。