羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

”詰め”と”諦め”

 

 いろんな場面で大切なものが色々とあるが、そのなかでもこれが大事! と、なかなか気づかれない代物というのが『詰め』だと思う。

 

 例えば、大学受験や資格試験である程度まで勉強をしたが、あと一歩というところで点数が取れないというのはおそらこの”詰め”が甘いのだと思う。公式や単語、専門用語は覚えているが、どこでどれを使えばいいのかというのはわかっていないのはまさしくこれ、詰めが甘い。試験の時間配分の使い方が予定よりオーバーしてしまうのもそれ。2、3分遅れただけでも致命的になることも少なくない。

 しかし、そんなの”詰め”の甘さに気づかず、自分は大丈夫と思ってしまうもの。そしてテストの結果が悪ければ、なんで取れなかったんだと肩を下ろす。それならまだいいが、自分には才能がない、向いていないのかも、と、”諦め”に走ってしまう。そうなると試験どころか勉強そのものを放り出してしまうサイクルへと陥ってしまう。”詰め”の甘さが”諦め”になるのは別におかしいことではない。

 

 それでは詰めの学習方法はどうすればいいのかだろうか? 一番手っ取り早いのは試験本番を想定した模試を受けることだと思う。模試を受けながら、自分の心のつぶやきを問題用紙の片隅にでもメモを取れば、詰めるべき穴が見えてくる。とはいえ、試験本番を想定しているのだからそんなヒマするぐらいなら1点2点を取った方がいいと脳みそはそっち好むはずだから難しいところだ。

 となると、次は”詰め”の学習段階をどの時点でするべきなのかという話となる。何かを学ぶときは予習→講義→復習→定着というのが基本(かな?)だと思うし、試験の前では、復習ノートの確認→問題集→間違えた所の確認→問題の復習というサイクルが好ましいところだが、ここまでやってもまだ詰めの段階に来ているとは言えない。ここまでの復習を2,3回程度ぐらいしかしていないからだ。

 復習を何十回すれば詰めることができるのか? 残念ながらそうだと思う。しかし、復習の時間を1回30分かけろというわけではなく、ノートをさらっと見て、「ああ、ここはこういうことだったんだな」と1,2秒間で脳内バタフライエフェクトが起こったような感覚を覚えればそれでいいと思う。そして、問題集もさらっと見て、「ああ、ここはこうやって解いたんだな」と脳内バタフライエフェクト2が起こったような感覚になればいいと思う。そうやれば、自然と学習内容については”詰め”ができていくと思う。

 

 しかし、ミヒャエル・エンデが危惧した時間を盗まれている現代人においてはノートを見る時間でさえも時間が惜しい。電車内でスマホをいじくるのは好きなクセに、血なまぐさく問題を解いたノートを見るのはなぜかイヤ。そりゃ、電車内でお目こぼしにも程がある汚らしいノートを見るなんて恥ずかしいし見せたくもない。

 電車内でゲームをしたり、化粧したり、コーラを飲みながらスナックをばっさばっさと食べている輩がいるのに、なぜかこういう真面目ぶったことに関してはうまくできない。ある意味、ここでも勉強をすることがが恥ずかしいという訳のわからない羞恥心が働いて、”詰め”を”諦め”ている。

 言い換えれば、そんな必死なことをしてもこんなところでしているなんて日頃から勉強不足じゃないの? と、いうあなたの人生のこれからがわかっていますよ、という陰口が聞こえているからか、ノートを見ない。

 

 閑話休題

 

 さて、ここで個人的に”詰め”の学習方法を1つ。

 

 一度目の学習が終わって問題集を解いて学習内容が定着した後で、もう一度軽めのノートを書いてみる。ただし、そのノートは間違えても重いものは絶対書かず、自分が学習した内容を思い出すことができる想起ノートを作る。すなわち、脳内バタフライエフェクト3完結編とも言える軽めのノートを作るわけだ。

 もうすでに仕上がった母艦ノートは完成しているのだから後は日頃から記憶を引き出す想起ノートがあれば1秒でも復習ができる。これでダメ押しに”詰め”ることができる。

 ただし、そのノートを書きすぎないこともまた1つ。かといって、問題一つ一つごとに1ページ使うのももったいない。個人的には「問題を書いておいて、横にちょこちょこと解答となるヒントを書いておく」のがおすすめ。解答はもう問題集やテキストにあるから大事なのはそのプロセスが脳内に存在しているかにある。最終的に詰める場所はノートでなく、脳にあるからだ。

 まあ、私の場合、学習の詰め方としては広い広い基本レベルの問題集を試験1週間前(大学受験なら2週間前、模試は全て終わらせていること!)にして、弱点をあぶり出すのがオススメ。この時の使う時間は想定時間の半分以下、またスタミナが続く限り全問解く。

 ここで問題なのは立ち止まること。時間を使う問題なら良いが、問題に立ち止まるということはその問題と解き方を知らないということだ。立ち止まったら遠慮なく解答を見る。そして次、と終わるまで続ける。

 もしあまりにも立ち止まるのなら、それはもう”詰め”の段階ではなく、まだ問題を解く段階、つまり、定着前の状態だ。高得点は望めないと覚悟を持って、その問題を覚えるつもりで覚える。

 問題を解き終えて、試験の前の日、その問題集をパラパラと読んで、バタフ……と、もういいだろう。とにかく、軽くてもいいから振りかえよう。

 

 後、本番試験用の”詰め”もある。計算ミスが多発するのなら他の問題に移って、落ち着いてから解く。見直しのために次の問題へ行くと言ったリカバリーポイントの設置。ここは速く解く、ここは時間が必要だと気づくショートイージー・ロングディフィカルト(即易難問)の特訓。1つの問題にこだわりすぎて時間を多く使う性格か。図は小さめで多く用意するか、それとも大きめにしとくかと問題ごとに考えておく、などなど。

 やはりこれらの詰めを知るのは模試を受けるか、問題解くときに誰かに添削してもらうと言ったコーチング(先生じゃなくてもその問題を解けるレベルの人間)を受けた方がいいかもしれない。ここで大切なのは自分が満足……とまで行かなくても良いが、とかく納得した解答を提示するということ。それが”詰め”の学習につながる、と、言ってみる。

 

 あ、そうそう。

 昨年の12月ぐらいか。私が地下鉄に乗っていると、塾帰りの小学六年生かな、そのコが私の隣に座ると、一目散で難関中高算数の問題集を開いて解き出した。それを見せびらかせいたのかどうか知らないが、ボクはガンバっているぞ、という姿を見た。

 そのとき、私は、ああこれはXを使わないで解くのか? とか思いしつつ、電車に降りた時「あ、これがこのコにとって電車が”詰め”の場所なんだな」と、なんとなく感じた。

 

 小学生が電車内で勉強を”詰め”ていた。大人は何かを”諦め”る前に、その何かの”詰め”について、もう少し考えてみるのもありなのかもしれない。

 

 ちなみに、これは事実です。

 

想定力のメリットとデメリット

 ツイッターのまとめ”togetterを見ていたらなんだか面白いものを見つけた。それは”ラノベを読んでも読解力は身につかない」について持論展開する人たち”の引用した文だった。

 

「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」の一説より、

 

『――読み手が文脈を作り上げるのです。そして、その文脈に合わせて部分を読み間違えたり、読み飛ばした部分をその文脈に会わせるかたちで想起したりするのです。』

 

……確かに。そう言えば、それで文脈を読み間違えて、文章や英文を間違えたことがあるな……。

 

 いずれこの本は読んでみるとして……、なぜ、こんな間違いをしてしまうのか。それは、すぐ文章の中身を読むために、自分自身がその文章の内容を想像する『想定力』が働いていると考えられる。

 

 私が言う『想定力』は、書き手があることを主張するために読者が予め持ち合わしている知識や経験を総動員して、その主張の内容を予め予想する力のことをさす。

 例えば、ちょっと古いが誰かが「今年のM-1グランプリ面白かったな」と話題を触れるとしよう、そのとき、自分は「あ、一位の銀シャリのことを話すのかな?」「相席スタートはヒトを選ぶよな」とか予め考えられる答えを用意しつつ、「何が面白かったの」と返答する。すると、相手は「勿論、一位のだよ」と答えると、すぐ自分は「あ、銀シャリね」と、話を合わせられる。

 また、ある小難しい文章も予めテーマがわかっていれば、すらすら読めることもできるし、ドラマやアニメの展開もこういう風に進むんじゃないの? と予想することもできる。これが想定力である。

 

 この想定力は日常生活において必要な力である。というより、長年の経験によって無意識に行動しているパブロフの犬よろしく、一種のルーチンワーク化している行動であるといえる。この力が働けば、何をすればいいのかわかっているため、頭がスポンジ状態でも勝手に身体が動くし、何をするのか予想ができる。

 逆に、あなたが店員でお店のカウンターの前で客の注文やクレーム以外に何をするだろうのか? 股間を押さえ付けながらやってきて苦しそうにトイレの場所も聞いてくる訪問者もいることはいるが、たいていは「ご注文を承ります」ぐらいで他にすることはないだろう。

 この想定力が皆の頭に働いているからこそ、無意識の中で常識が存在し、その常識の下で毎日を暮らしている。

 

 さて、想定力について話した所で、そのメリットについて話しておこう。

 

 私はこの想定力で用いて文章を読んでいることが多い。いわゆる速読をしている。想定力の利点は「読むのが速い」「内容の検討がつく」「書き手の主張で立ち止まれる」といったものがメリットと言えよう。

 「読むのが速い」「内容の検討がつく」というのはだいたいわかるかもしれないが、「筆者の主張で立ち止まれる」というのはなんだろうか?

 新書やニュースメディアのコラムなどは書き手の主張がわざと一般とは違う対立関係を立てて、読者を立ち止まらせる文章を書いていることがある。現代文の接続語で「しかし」「だが」とかあれば、重要な文でそこをまとめれば点もらえるよという高校の教師が指摘するように、たいてい、書き手もそうやって、読者立ち止まらせポイントを作っている。(まあ、そういう書き手もいないこともあるが)

 想定したどおりの文章じゃない? じゃあ、ここが大事な点? と、気付き、そこでじっくりと文を読み込む。わからなければ、流し読みしていた所に戻し読みしつつ、その文章の深い所を踏み込んでいく。どちらかという私はこういうタイプの読書法だと自負している。

 

 しかし、この想定力の使い所を間違えると痛い目を見ることがある。それは「書き手の主張とはまったく別のものになっている」。これがデメリットである。

 書き手の主張が別になってしまったポイントは2つある。1つは専門用語や作者だけが用いているキーワードを理解せずに読み込んで、別の解釈をしてしまったこと。知っている単語を拾い読みしているだけで、だいたい中身を理解した気になっていることは、英語を全然読めなかった高校生のときにあることだろう。それと同じように、自分自身の思い込みで相手の文章を勘違いする。たいていは痛い目を見ることなくそのまま本棚の中で眠ることだろう。ある意味それは間違いに気づかないまま読み切った幸せな読書かも知れないが、本の中身を理解したということではないと思う。

 2つは速読するのに夢中になって、文章の文を勝手に自分の頭で書き込んでいくこと。

 

「私がとんこつラーメンが・・・・のは、――――しつこさである」

 

と、読み飛ばしたとしよう。

 ・・・・は大好きな、――――は九州独特と言った言葉を想定して、次へと文章を読み進んでいく。

 

「それに比べて、しょうゆラーメンはなんともまあおいしいものか」

 

 あれ? なんかおかしいぞと読み戻すと、

 

「私がとんこつラーメンが好まないのは、その独特のしつこさである」

 

 というように、文を勝手に想定したことで文章がまったく別のものになってしまう。これは読み飛ばした自分自身が悪いため、書き手自体は悪くない。こういう人間の心理をミスリードを誘うミステリー作家もいるが、たいていの書き手は自分の言いたいこと、思ったことを伝えたいので、そんな意地悪するのはいない、と思う。

 

 と、想定力について話してきたが、この想定力の源となっているのは、幼い頃から自分の肌で感じた知識と経験である。この知識と経験が養っていないと、読書にブーストを掛けてくれないし、間違えた解釈をしてしまう。

 けれども、そんな養った想定力がなくても妄想を働かせて読むことができる。そういう妄想力を働かせた読み方は実に楽しい。脳がどこまでも際限なく伸びていく宇宙のヒモを妄想すれば、ポワンカレ予想の答えに辿りつく気もする。しかし残念ながら公式も理論も知らないから妄想は妄想に過ぎず、答えは笑っておしまい白紙<タブラ・ラサ>である。

 しかしながし、妄想を否定しているわけではない。こういうのができたらいいなと思うのは悪いことではないし、面白い。そういう妄想のスパイスを使い分けながら想定力を働かせば、いつもより楽しく本が読めたり、毎日が少し面白く見えるはずだ。ただ、ありあまる妄想力で筆者が真剣に書き上げた本と向き合うのは摩擦が生じる。となると、本を読めないのは読み手である自分が少しズレた視点で読んでいることにあるのかしれない。

 本を間違えて読むということは、新たな知識の扉を開けてくれる本をただ開けているだけに過ぎず、そこから流れ込む書き手の息吹を感じ取れない。しかし、その感じた書き手の息吹に、自身の想定力と絡めれば、知識だけでなく全く体験したことのない経験を手にすることにもなる。(ただただ、だぁーと文字を流し込み、ああ、読んだ読んだ、となることもあるが)

 

 ところで、この想定力はどうやって養うか。気の利いた書き手なら読書! 人生の経験! チャレンジと意識高いことをいうが、私はそうではないと思う。

 自分自身が「ああ、これは、自分が想定したものだな」と意識の使い分けばそれでいい。無理に背伸びしなくても自分の想定力とは違ったものと、出くわすことはよくあること。

 

 と、言ってみた。

 

 今年もありがとうございました。

 来年も気が向いたら書いてみます。

 

 ……読者の想定通りのモノを書けるヒトがなんとなく羨ましい。

 

怒るというセーフティーネット、怒らないという社会の破けた網

 

 私は二度、車に轢かれたことがある。一度目は自動車、二度目は自転車だ。どちらがヒドかったというと、自動車だと思うが、残念ながらヒドかったのは自転車の方だ。

 

 一度目は高校生の頃、自転車から片足を地面につけて信号機を待っていたら、その足のふとももがタクシーの側面にぶつかった。運が悪かったのか良かったのかわからないが、遅速で当たったからケガになることはなかった。狭い路地へと曲がろうとして運転技術がなかったから当たったのだろう。

 それに、路地に近すぎた自分自身にも問題があったのだろう。だから、あまり怒ることはなく、去っていくタクシーの後ろ姿を見送っていた。

 

 二度目は一年前、買い物から帰っている時に後ろから自転車にぶつかった。けっこうスピードが出ていたのだろう。ふとももがガンと当って赤く腫れた。

 自転車のタイヤに当たったのはワケがある。目の前にこどもやおじいさんがいて、少し急ごうと横切ろうとした所で、そこで自転車にぶつかった。これは自分のミスだと思った。

 しかし、それは違っていた。その自転車に乗っていた――少年ぐらいの男がイヤホンをつけながらスマホで電話しながら運転していた。さすがにキレた。目の前のこどもやおじいさんにぶつかったらどうするのか!? これは本気で怒るべきだと思い、近くの派出所まで行こうと言って、一緒に来てもらうことにした。

 相手は逃げないようにと自転車のハンドルを触れながら派出所まで向かったのだが、男は自転車から降りた。

 自転車は私の方に倒れかかる。相手は自転車を運べと言った。そして、触るな、とも言ってきた。

 何言っているんだ? こいつ。

 目の前の男の無神経さに殴りたい。そんな衝動が湧き上がった。 

 だから、私はこういった。

「もういい」

 男は安心したカオをし、自転車に乗って去っていた。

 

 もしここで私は怒っていたらどうなっていただろうか。殴っていたのか、それとも、理路整然と責めたてていたのか。しかし、ここは少し横に置いてといて、怒られるはずの男の方を見てみよう。

 ここで男が怒られていたら「これはいけないことだったんだな」と反省するか、「なんでこいつが怒っているんだ?」と相手をバカにしたりと色々と思うはずだ。そこから「もうスマホ運転しない」と行動するか、「スマホ運転するけど、少しは周りをよく見よう」と改めるか、という反省する可能性があったはずだ。

 しかし、私は「自転車に乗りながらスマホ運転していいよ」という怒らない選択肢を取った。私はそう思ってもいないが、怒らなかったから結果的にそうなった。

 男は安心したはずだ。「オレは運がいい。こういう時は、相手を怒らせる行動を取って、逃げればいい」と知った。

 運がいいと思ったはずだ。ラッキーと安堵したはずだ。

 

 けれども、私はそうじゃない。私が取った”怒らない”というのは「もう反省する見込みがない」と彼を見捨てたからだ。

 

 怒らないというのはとても理性的な方法だと思う。「これで怒るのは大人げない」と自制する。「大声で怒ったら恥ずかしい」と我慢する。「相手に何言ってもムダだ」と理解する。「こいつを怒ったらオレはどうなる?」と制止する。「これは自分に害がないから別にいい」と無視する。いずれにしろ、怒らないという行動は自分の利を中心とした頭を使ったものだ。

 一方、怒るというのは感情的だ。痛いから怒る。ムカつくから怒る。腹が立つから怒る。と、自分に害が及ぶから怒る。

 中には、相手に傷ついたらどうするんだ。ヒトサマに迷惑かけたらどうするんだ。もっとしっかりしろ! と、理性さを怒りにねじ込ませてそれをぶつけることもある。

 言わば、怒りというのは自分の気持ちを相手に理解して欲しいから大きなメッセージを渡すわけだ。

 

 二度目の自転車での事故で私が怒らなかったのはそれである。私はメッセージを与えることをやめてしまったのだ。「こういうタイプは何言ってもダメだ。きっと大きな事故を起こす」と未来を見てしまったわけだ。

 ここでできた大人ならきちんと「キミは自転車で人を轢いたのだから、警察をはさんで話をしようか」と言えたはずだったのだが、残念ながら私はできなかった。相手を小馬鹿にし続ける相手の態度を見続ければ、いずれ暴力をふるうことがわかっていた。「怒ったら社会的に損する」と戒めたのだ。

 きっとみんなが全面に怒らなくなったらのはこの「社会的に損するだろう」という損得勘定なんだろう。私は彼をうまく怒ればセーフティーネットの役割をはたすはずだったが、自分の感情を優先して怒らなかった。

 この怒らないという行動によって彼を社会の破けた網を通らせる結果をもたらしてしまった。

 

 この怒らない“社会の破けた網”が知らない間に増えたと私は思う。現に私がそうだった。

 そして社会の破れた網を知った者はそれをもう一度くくろうと舌なめずりする。「こいつは絶対文句を言わないから好きにしてやろう」とヒトを値踏みする者もいれば、「オレは無敵! 今、運いいから!」と自分の運を信じる者もいる。

 痴漢や万引きが常習化するのはこの社会の破れた網をくくった時の旨味、達成感を知ってしまったからなんだろう。そういう達成感は別のものにすればいいものを、自分にしか見えない、自分だけが通れた火の輪くぐりを通り抜け続け、脳内に草を生やし続ける。お花畑なんだろう、その脳は。

 社会の破けた網によってヒトは増長する。そして、知らない間に犯罪をするか、それと同じぐらいの大きなしくじりをしてしまう。冗談に聞こえるかもしれないが、周りが怒らないというのは、社会のセーフティーネットが働いていないということである。

 子供の頃、親から怒られなかったと自慢するコや、仕事場では一度も怒られたことがないと胸を張るサラリーマンはとてもとても立派だと思う。だがそれは、このコは何言っても話を聞かないと残念ながらネグレクトされているか、大きな仕事を任されていないという無能というレッテルを張られているかと、危険信号が点滅している可能性もある。まあ、あくまで可能性の話。

 あと、周りから怒られまくっているんだと、大変自己評価の低い人間もいる。それはセーフティーネットをグルグルと巻き付けられているからと安心しよう。大切にされている。うん。そういうことにしよう。

 

 さて、怒る怒らないという話をした延々と書いていたが、話をまとめると、怒る場面でうまく怒ることができなかったという話で、その後、怒られるはずの相手が、調子に乗るという話で、そして、その調子に乗ったら相手は大きな問題を起こすという話の流れで、ただ単にブログを書いてみた。

 ちょっと希望的観測が入っていない? と思うヒトもいるかもしれないが、私は一度ヤバ過ぎるスリルをうまくすり抜けることができたヤツは、もう一度そういうスリルを楽しむか、またはそのスリルのリスクは取らないと考える人間である。つまり、一度、運任せをしてその運が良かったら、リスク回避なんて考えず、またそれに手を出すのが人間であると思っている。

 怒られるときに怒られないというのは怒られる側にしたら運が良かったと思う。特に悪いことをしたとき、こどもにとってそれは幸運と言える。

 

 しかし、それは幸運だろうか? 大人になった時に不運に転じるのではないか?

 

 怒るべきときに怒ることができなかったそんな私。私に怒られなかった彼はもっと大きな問題に直面した時、どうなるのだろうか?

 そしてそいつが何かしくじってくれたらと悪魔めいた気持ちでいる自分もいる。自転車にぶつかったとき、けっこう痛かった! からだ、と言ってみる。

 

 ……夏休み最期の日だから何か書いてみようと思った所、高校生は一週間前から学校を始めているみたい。読書感想文の話や、宿題の話でもと思ったけど、あまり意味がないと思ったので、こういうことを書いてみました、と。

 

大人げないおっさんから学ぶ、日常の「速さ」

 

 お腹すいた時に天丼が食べたいなと思ったそのとき、ふと、あることを思い出した。

 それは平日の昼下がり、天丼屋で店員に向かってどうしようもない文句をぶつけていたおっさんのことだ。

 

 あまりにもくだらないので、ながなが書く気はないので単刀直入に言うと、

 「時間がかかっているぞ。早くできると思ったから入ったのに」

 ――と、どうしようもないものだった。

 ちなみに、そのおっさんは私が入ってときから後に来た客で、だいたい10分くらいでそれを言い出した。

 確かに、時間わずかな昼休みで10分のロスは痛いものであるが、チェーン店でもない町の天丼屋でそれを言うのはどうだろうか。

 ――お腹すいたから早く食べたいのではなく、時間がもったいないから早く食べさせろだから、なんかもう救いようがない。

 仮に大事な商談があるからちょっと食べておこうだったのならコンビニで買うか、チェーン店に入った方が確実に時間の節約になる。だというのに、なぜ、町の天丼屋に入ってしまったのか。

 確かに、その店は見てくれは飲食チェーン店のような装いをしていたが、中は少し広い食堂屋であった。券売機もなければ、呼び出し鈴もない。ごく普通のお店である。たいていそういうお店は時間がかかるという覚悟と、それに似合った味を提供してくれる楽しみがあると思った方がプラスに働く。

 しかし、おっさんはそういう目がなかったのかどうかはわからないが、入ってから10分足らずに「早くしてくれ!」と文句を言った。無理言うな。工場で冷凍パックした飲食物をお店で解凍してそれを出しているのとは違って、厨房で一つ一つ調理しているのだから。

 チェーン店に慣れたサラリーマンであれば、どんぶりものはすぐできると思っているのだろうか。20分前後、いや、15分はかかるだろうに。

 

 と、言うのが一週間前まで私が思っていた町のどんぶり屋に対する認識だった。

 

 ところが、最近できたチェーン店のカツ丼屋に入ってカツ丼を注文したら10分足らずにカツ丼が出てきた。カツ丼がこんなにもすぐできるのかと関心してしまうと同時に、おっさんのガマンはこういう店から作られているのだと改めて思う。日常的にこういうお店ばかりに入ったら速さに慣れてしまう。

 日常の「速さ」がここから作られる。

 おっさんの言った「早くできると思ったから入ったのに」という言葉の真意を、10分足らずに出されたカツ丼を見てわかった気がした。

 

 だが、おっさんの文句を認めたわけではない。日常の「速さ」に慣れてしまって、日常の「遅さ」を感じた時に、誰かに当たるのはあまりにも大人げない。日常が「遅くなった」とき、自分の立てたスケジュールとズレてうまくいかないことはわかる。だが、今までの日常が「速かった」という目で見ないと、その日常の「遅さ」と遭遇したときにうまく対処できない頭となり、感情的になり、大人げないおっさんとなる。

 

 でも、今回、私は日常の「速さ」でおっさんがキレたワケに気づいたのだが。日常の「速さ」に慣れ過ぎると、日常の「遅さ」を感じた時に不快感を知る体質になるのはとても怖いものだ。町の洋食屋でも行って、時が遅く流れる感覚を味わい、そのズレを直した方がいいかもしれないと言ってみる。

 

 ちなみに、味は町のどんぶり屋の方がチェーン店よりおいしかったです。

 

 

千羽鶴はいつ届けるべきか?

 

 熊本地震被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。

 

 さて、熊本地震について色々と思うことがありますが、一番思っていることが一つ。

 

 色々と早い。そんな気がしてならない。

 

 熊本地震が発生してから一週間近く、驚くほど迅速な対応ができている。これは、東日本大震災の経験やその後の法律によって対策ができているからだと考えられる。

 一方でその早さが裏目で出ているのもしばしば見受けられる。その一つが被災へと届けられる千羽鶴である。

 

 私も小学校の頃、修学旅行で原爆ドーム千羽鶴を届けるために折ったことがある。それまで千羽鶴なんてものを折ったことがなかったため、首や羽がくたびれた感じの折り鶴になってしまった。また、中学校の頃にも千羽鶴を折ることにもなり、千羽鶴に関してはあまりいい想い出がない。

 とはいえ、子どもにとって誰か傷ついたヒトに届けられる数少ない応援メッセージといのはそういうものでしかない。お金以外のものでくすぶった気持ちを昇華させるには、千羽鶴を折るのが一番ということになる。

 しかし、被災者にとっては本震から一週間、まだ余震がやってくるかもしれないと恐怖を感じているときに、これからガンバって羽ばたいていこうと元気な気持ちを与える千羽鶴は相性が大変悪い。また、生活圏が急変し、これからどうやって生活するかを考えないといけない。つまり、千羽鶴を届けるのは時期早々というわけである。

 ところが、震災が現れると困っているヒトがいるから千羽鶴を折って元気づけようとする発想が出てくる。勿論、誰かのために何かをしてあげるという気持ちは、どんな宝物よりも大切なものである。だが、誰かのために何かをしてあげたいという気持ちは相手の気持ちを聞かないことにはお節介以上の厄介事であり、逆に相手の気持ちを逆なでにする行動となる。

 困っているヒトに何かをしてあげたいという気持ちが無闇にからぶっている。これが私にとって、「色々と早い」と感じる理由なのだろう。

 

 何百回以上の余震が現れ、まだ地震が来るかもしれないそういう精神状態で、千羽鶴が届けられたら、これ以上地震に対してがんばらないといけないのかという気持ちになってしまう。これでは精神がすり減ってしまう。相手はそういうつもりで千羽鶴を折ってはいないが、届けられた方はそんな気持ちになってしまえば、千羽鶴の羽は羽ばたかない。

 震災と聞いて何かしたいが、お金がなく、何もできないとくすぶっているかもしれない。そういう気持ちの中で誰かが間違ったことをしたら厳しく非難したくなる。それで被災者のためになる気持ちになれる。いや、それが正しいことだと思ってしまう。そういう気持ちになってしまうのであれば、それは千羽鶴を折ることよりも悲しいことかもしれない。

 自分は何もしていないのではないかとくすぶっている感情が攻撃的な感情をもたらす。そんな自分は揮発するアルコールみたいなもので、着火されやすくて、炎上させやすい。しかも、たちが悪いことに自分の言動を正当化してしまう。誰かのためにしてあげたい感情が悪いエネルギーになっているときだ。

 そういう気持ちになっているのであれば、千羽鶴を折るのはいいことかもしれない。誰かのために思う気持ちがカタチになっているからだ。ただし、届けるのは後にする。余震が終わり、被災者に生活のメドが出てきたときに始めて届けられる。千羽鶴の羽も元気よく羽ばたけるだろう。

 つまり、千羽鶴を折るのは今でも後でもよく、千羽鶴を届けるのは、相手先が笑顔に驚かせる時期まで遅らせるのだ。

 

 「色々と早い」情報化時代の中で、意識して「遅らせる」方法を取るのが必要だと思う。このいつ届けるかがいつになるのかはわからないが、それまで待とう。

 相手のために必死に折った千羽鶴が部屋の物置になるから捨てようと言うのであれば、厳しいことをいうかもしれないがそういう気持ちで折ったにすぎないのだ。

 

 私の親戚も熊本県にいる。阿蘇から離れた南部にいるのだが、たいへんだったようだ。また、友だちも福岡県にいて、なんとか大丈夫、とLINEと返答した。

 そういう状態の中、自分ができることといえば、情報を集めるか、自分のモヤモヤしている感情が何かを見極めることぐらいしかなかった。で、やっと、このモヤモヤ感というのが、誰かのために何かしてあげたいくすぶっている感情だったと、このブログを書いている時にわかってきた。

 このくすぶっている感情が良いエネルギーになるか、悪いエネルギーになるのかは、そのヒト次第。もし、悪いエネルギーになりかけているのではないかと感じてくれたのであれば、このブログを書いた意味がある、と、言ってみる。

 

 ……今年の終わり頃か来年か、九州に行くことになるかもしれないな。

 

テレビの魔法が解けた日-2016-01-18

 

 SMAPと言えば、日本に住むヒトなら誰もが知っているスーパーアイドルであり、多くのヒトに夢や希望をもらしてくれた大きな存在であった。

 彼らがテレビに出ると、視聴者は、次はどんなことをしてくれるのかを期待し、同時に彼らはけして私達の期待を裏切らない大きな安心感を与えてくれた。

 

 ところが、SMAPの謝罪会見によってそれは大きく覆された。彼らは深々と頭を下げ、自分達の行動に不手際があったと謝罪し、責任を取る社会人の姿がそこにあった。

 この行動に関して、パワハラだ、BPOだ! という声があがっている。しかし、私にとって気になったものはそれではない。あの謝罪会見によって何か大きなモノを崩れたのだ。

 その大きなものというのはテレビに掛けられていた魔法、すなわち、テレビの安心感というものが崩れたのだ。

 

 家に帰ったらテレビをつけて、それをBGM代わりにして、着替えをして、次は何をしようかなと考えるものである。テレビをなせつけたがるのかは、それは部屋の中で一人だと寂しいからであり、何らかの声が欲しいものである。かといって、歩道で遊んでいるこどもの声をBGMにするには少々うるさいものである。なぜなら、自分で音量を調節することができず、自分の期待するような行動をするはずがないからである。

 ここでいう期待とは、ニュース番組の新しい情報やバラエティ番組の笑い声と言った、テレビをつければ当たり前に送られてくる情報に対する期待を意味する。私たちは現在の情報や少し雰囲気を変えたい、笑いが欲しいなど様々な要因によってテレビをつけて、情報をもらい受ける。そのとき、心の中にあるのは、それらがもたらされるはずであるという期待感であり、その期待感に突き動かされてリモコンを持って、電源を入れるのである。

 

 今回のSMAPの謝罪会見も何らかの期待感を持ってリモコンを手にしたはずである。解散しないでほしい、彼らはこれからどうになるのだろうかという不安感に煽がれて、その気持ちを止めるため、安心感を得ようとテレビを見ていたはずである。

 その結果、2016年1月18日で見たものは、安心感どころか、テレビそのものを伝えてしまった『報道』であった。

 あの報道は、「私達の作っているテレビはこういうところです」というすべてが込められた濃密な数分間だった。おそらくすべてのヒトは謝罪よりも、「テレビ」というぞくりとしたものを目や音やその身体で感じたはずである。もちろん、演出だったと考えれば、そこで思考を止めることができるが、その演出をも越えるにじみ出た恐怖感は忘れることはできない、……テレビはこういうところ、という現実を見せられた瞬間だった。

 そう、あの『報道』によって、安心感を求めていた私達はテレビに対する期待感が崩れてしまった。 

 

 安心感という魔法が解けてしまった私達はこれからどうなるだろうか? おそらく、何も変わらないはずである。いつもどおり、テレビをBGMに日常生活を営み、毎日を過ごすはずである。そして今までどおりテレビに出てくるタレントに期待して、安心感のある笑いやどうでもいいような情報を受け取るはずである。

 だが、時折、目に入るタレントに対して今までと同じように見ることができるのだろうか? 私達は魔法の掛けられたときのまま笑っていられて、その情報を素直に受け取ることができるのだろうか。あの芸能人が言っていたのだから、この商品はいいもの! と鵜呑みにして商品を買うことができるのだろうか……

 昨今、テレビはつまらないと言われているが、それでも一定の視聴者が見続けて、大きな広告効果をもとらしている。番組と企業がタイアップして商品を紹介する番組も少なくない。テレビの効果はまだまだ健在である。

 しかし、魔法を解けてしまった視聴者はその番組を見て、あの『報道』と同じときの感覚を受けてしまったらどうだろうか。果たして視聴者は手に取ろうとするだろうか。安心してテレビに期待していたときの自分と、あの報道を見た後の自分とは少しテレビを見ている質感が変わっているはずだ。

 

 そう、あの『報道』がもたらしてしまったものは、今まで作り上げてきた「テレビ」の魔法を、皮肉にも、テレビ自身が崩してしまったのだ。

 

 

モノ書きのパラメーターについてドラクエ風味に考えてみる

 

 モノ書きのパラメーターについてドラクエ風味に考えてみる。

 

 この考え方は書き手としての自分を認識する際にとても役に立つと思う。

 

 それでは、まず、基本のパラメーターについて。

 

 > HP:自分自身の「信頼度」、読者の「期待度」

 > MP:トリックや設定などの「引き出し」や「やる気」

 > 攻撃力:読み手の心を動かす「文章力」

 > 守備力:作品の設定や世界観の「矛盾点」や「批判点」

 

 ・ HP:自分自身の信頼度

 

 HPは自分自身の信頼度。簡単にいえば、これから面白くなっていくという「期待感の持続性」と言ってもいいだろう。この信頼度がなければ、読者はすぐ飽きて、読まなくなる。すなわち、作者としてのHPがすぐゼロになるわけである。

 例えば、一発屋芸人がすぐテレビからいなくなるのは、このHPがゼロになるからである。ずっと同じネタを繰り返されたら面白くなり、飽きる。そうなると、視聴者の期待感の持続性が失われ、信頼度がなくなるというわけだ。

 結局、モノを書くということは誰かに何かを伝えるということ。モノを読む人がいなければ、書いたものは意味がないもの。このHPには気を使っていきたい。

 

 ・ MP::トリックや設定などの「引き出し」や「やる気」

 

 MPは引き出し。推理小説で言う所のトリック、ファンタジー小説で言う所のキャラクター設定や世界観、などの所有の数をさす。

 まず、小説を書くのであれば、このMPを上げることから始まる。どうやって上げるかは人それぞれ。私の場合、本を読んだり、勉強をしたり、これを血肉にしようという意識で高めている。

 MPをある程度高めた所で、MPを消費しながら、モノを書き続ける。このMPが多ければ多いほど、文章を多く書くことができるはずだ。

 また、他にも「やる気」がMPと言ってもいいだろう。何かを表現したいという気持ちこそが文章の源。やる気、モチベーションも高めていきたいものだ。

 

 ・ 攻撃力:読み手の心を動かす文章力

 

 この攻撃力こそが作品の核となる。この攻撃力が高ければ高いほど、読者を次の1ページへと動かす原動力となり、この作品は面白いなと思ってくれる。

 語彙力、文法力、構成力、設定力、などなど、文章における総合的な力を束ねたものが攻撃力であるわけだ。

 

 しかし、どうやって文章力を高めていけばいいのか? それが問題となる。

 

 基本は何かから設定を借りて、その設定から文章を書いてみるのがいいだろう。童話から借りてもいいし、好きなアニメやゲームから借りてもいい。ただ、それは二次創作となるので相手から「武器」を借りたようなものでもあるので注意が必要となる。幾ら、語彙力、文法力、構成力が上がろうが、「設定」を描くことができなければ、いつまで立っても、借り物でしか物が書けなくなってしまう。

 だが、借り物だとしてもモノを書くことには代わりはない。なぜなら、それは作品として存在できることである。だから『借り物だからよくない』とあまり意識しない方が良い。ただ、それはパクリであることは意識した方がいいだろう。

 

 あと、攻撃力を上げても命中力がなければ、意味がない。命中力は流行のアンテナを感知できる観察力や、読者の無意識に眠る感性を察知できる力が必要である。プロはこの命中力が高く、読者の心を狙うのがとてもうまい。個人的には攻撃力よりも命中力を磨くことが大切だと思う。まあ、ある程度攻撃力をあげたらの話である。

 

 ・ 守備力:作品の設定や世界観の矛盾点や批判点

 

 守備力は、この作品にツッコミどころがないかという批判点。「これ、現実的でないだろう」と、ふと、素へと戻らせるウィークポイントでもある。

 例えば。恋愛ドラマで超お金持ちのイケメン御曹司が主人公であるブスな少女と恋に落ちるという話があるとする。はい、守備力がゼロの矛盾の塊で、読者からの非難が上がるだろう。こういう声が上がるのは、ブスな少女が自分と重ねたくもないという読者の気持ちにある。感情移入できるポイントにブスというファクターを入れたのは良いが、自分がブスだという認識を生み出し、「ありえない」という意識が高まってしまうからだ。

 イケメン御曹司が一番の矛盾じゃないの? という意見もあると思うが、この要素こそ作家の命中力であり、攻撃力。これが読者の心をわしずかみする武器と言える。こういう「ありえないけどあってほしい」という読者の気持ちを撫でるのも攻撃力であろう。

 さて、ここで、この設定でどうやって守備力を上げるべきか。私の場合、主人公を「ブスな少女」でなく、「無口でおしとやかな少女」と置き換えてみるとどうだろうか。そうすれば、主人公は感情移入できるキャラクターとなり、読者の気持ちが重なるはずである。今まで守備力が裸一貫だったのに、プラスへと転換するはずだ。

 

 ・ 守備力と攻撃力の関係性 

 

「守備力」はジャンルによって、ゼロに近い作品もあるし、高すぎる作品がある。どちらかというとラノベは他の小説と比べて守備力が低く、その代わり、攻撃力が高いと思う。ラノベで受けるには作家のパラメーターを攻撃力に全振りし、守備力は他の設定からパクるというのが良いのかもしれない。

 それを意識して書いているのか書いていないのかわからないが、攻撃力がありあまるラノベ作品が増加している。しかし、それは同時に守備力がゼロに近い作品が世に出ていることでもある。そういう作品はすぐ読者からの批判があれば、HPがすぐゼロになってしまう。そうなると、読者がみるみるうちに離れて行き、最後的には打ち切りへと追い込まれることだろう。

 それに、攻撃力の高い武具はMPをすぐ枯渇させる。妄想力や引き出しがいくらあろうとも、守備力がまったくない状態では、いつかダムにできた穴のごとく、音を立てて決壊することだろう。

 

 ・ 自分が上げるべきのはパラメーターは攻撃力? 守備力?

 

 モノを書くためには攻撃力を上げるべきか、それとも守備力を上げるべきか。それは自分自身の問題だと思う。そう言ってしまえば元も子もないが、攻撃力を上げるためには日頃から引き出しや文章を書かないといけないし、守備力を上げるためには勉強をしなければならない。それと同時に、引き出しを増やすために、MPを高めないといけない。こう考えると、日頃の練習をする際には、攻撃力と守備力のバランスよりも、攻撃力とMPのバランスが大事になる。結局、よく本を読む人間がよい文章を書くという理屈が通ることになる。

 まあ、個人的には守備力をあげつつ、MP、攻撃力を上げ、HPを高めていきたいのが理想だ。しかし、人間の気持ちというものはどうしても誰かから意見をもらいたがるもので、攻撃力に力を入れてしまう。つまり、どうでもいい作品につい話を盛り込んでしまう。せっかく貯めた設定やトリックをその場その場で使ってしまい、後々になって使えにくくなる。

 こうなると,筆は次第に止まってしまい、書くのが嫌になる。自分で自分の首を締めてしまうのが守備力ゼロの怖いところだ。

 そういうのがあると意識しつつ、何か面白いものを書きたいところだ。