羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

読解の鋳型は利用するか、利用しないか。

 こんにちは、羽根守です。

 今日は読解の鋳型《いがた》について話していきたいと思います。

 読解の鋳型というのは、いわゆるテンプレ読みです。

 例えば、小説で起承転結があるように、評論やエッセイにも、始まり→テーマ→具体的内容→結論、という順番で書くのが良いと言われており、大半のヒトはこういう読み方で文章を読んでいるはずです。

 利点としては、読みやすい、理解しやすい。具体例の前後を見れば、作者が基軸としている論点がありますし、もしその論点がわからなくても具体例を見れば、作者の主張がわかります。

 でも、不利な点としては、その読み方を自然と意識せず読んでしまうことです。つまり、無意識に読解の鋳型を利用してしまい、本来、作者が言いたかったことと、読者が読んだ理解した文章に差異が生まれてしまうことです。作者は文章というフィールドで勝負しているにも関わらず、読者は頭にある読解の鋳型から文章を理解してしまい、間違った方向に進んでしまうわけです。

 それに加えて、読解の鋳型を利用しすぎると、文章の内容をぜんぜん覚えていない状態になるです。文章を読んでいるのに、内容が全然わからない。何度か何度か読み返して、それでも、わからない。おそらくこれを邪魔しているのは、これまで自分が経験してきたいい加減な読み方、自分自身が作り上げた読解の鋳型に苦しんでいるのだと思います。

 いい加減な読み方になるのは文をいかに早く、効率良く多く読みたい、そういう自分ではあまり気がつかない小さな欲ばりにあると思います。

 ここまで読んでくれた読者も、おそらく、私が書いている文章についてさほど覚えていないと思います。なぜなら今回私はわざと、読解の鋳型ができあがるような書き方で文章を書いているからです。あまり特徴のないような書き方で書いたわけです。

 

 さて、いつもの書き方に戻ります。

 

 手触り感スベスベな文章は内容をなんとなくわかった気がして、読んだ気分となる。読解の鋳型を無意識に使って、サラッと読んでしまって、すぐに脳から忘れてしまう。これではいけないと思いながら、これを話題にするものかと言われたら、そんな崇高な文章でもない。だからそれでいい。

 あの文章、面白かったんだけど内容が思い出せないと言うのは、この読解の鋳型でモノを読んでしまったことにあるのかもしれない。 

 けれど、読解の鋳型で読まないと情報をさばききれないのも事実。じっくりモノを考えるよりも、多くモノを読むことの方が求められる時代だ。多くモノを読んだ方がお得感半端ない。

 けれど、ただ読解の鋳型を利用するだけで内容がわからなければ、知識はモノにできない。それは血肉にならないホントの消費であり、自分を世間に身を置きたい安心感から生まれた行動にすぎない。

 ……情報を寄せ集めて、なんとなく、なんとなく、わかった気になれて、安心したい。読解の鋳型はそういう世間に追いつきたい気分になりたい欲によって、いい加減に作られてしまう可能性が高い。

 まあ、あくまで個人の感想であり、いい加減な読解の鋳型でも、モノは読める。何も読まないよりかは数段マシ、流し読み万歳だ。

 でも、練度のある読解の鋳型で読めれば、作者の意図がフルにわかり、知識もモノにできる。いい文章を何度も読み返せば、練度のある読解の鋳型は作られる、と、言ってみる。

 

 さて、今回、こんな話をしたのは、最近、ちょっとした異世界モノのラノベを書いていたからである。

 10万文字以上書いたにも関わらず、自分のPV数を見て、読者の共通認識である俺ツェーやハーレムを出さないとダメなのかと、大きく絶望している。確かに見切り発車だったが、読者が共通認識でないモノを出したらダメなのか? と、自問自答していたら、なぜか、このテーマでブログを書きたくなった。

 ……今の現代人は共通認識を話さずとも既にわかっているモノとして話している。つまり、何らかの鋳型でできたテーマを前提に話しているのではないか? では、その鋳型はどうやってできたのか? 

 と、こんなことを考えていたらこんなブログになったわけです。