復習や反復練習ほどイヤな言葉はない
復習は嫌いだ。まして反復練習というのは嫌いだ。
まったく同じ内容のことをやるのだから意味ないと思う。しかも、何度も同じ練習をさせられるのだから、上手い人から遅れる感じがする。
……あのヒトはもっと良い練習をしているのだからうまい。
……あのヒトはもっといい人から良いことを教えてもらっているのだからできる。
そんなことを思い込んでしまう。そしてその苛立ちからいつしか復習をすることをやめて、ホントの置いてけぼりになる。
しかしながら、反復練習ほど技術が身につく方法はない。よくある新書やライフハック記事からは『反復練習は絶大』と言う。記憶が定着する。スピードがつく。理解ができるなどなど、効果は実証されている。
わかっている。わかっているのだ。
それで力がつくのはわかっていると頭ではわかっている。
――ただ、復練というのがスゴくメンドクサイ。生理的レベルでやりたくないし、本能的レベルでキライなのだ。
新しいものを求めたがる現代人にとって同じことをするのは大きな不満である。もっと別の新しいことをやって新鮮な体験をしたいのだ。
そもそも復習という言葉自体が嫌いだ。
また習う、おなじことを、また習う。実にメンドクサイ。
言うまでもなく反復練習という言葉自体も嫌いだ。
反復は返って再びするという意味。練習は練り習うという意味。
すなわち、返って再び練り習う。
ちょっと待って、練習は練り習うのだから誰かにコーチングしてもらう必要があるだろう? それなのに、誰かに同じことをもう一度習うなんてイヤすごくメンドクサい。基本、練習は独学であるため、反復練習も独学の延長上にあるが。
それだけではない。授業で1時間受けたとする。復習なら1時間も掛けないのかといけないのか? えッ!? 大切な青春時代に1時間も割けられますか!? 復習が嫌われるのはどれだけ時間をかけていいのかわからないことにあるはずだ。もしかすると、1時間は愚か、2時間以上も時間をかける可能性もある。ボクはもう嫌だ、と、噂の快男児も言いたくなるのだろう。
その上、反復練習という単語が長い上に言いにくい。「はんぷくれんしゅう」で9文字。途中の「ぷ」って発音で山を感じ、また「しゅう」でもう一回山に登る気がして嫌気がさす。反復練習という言葉がイヤになるのは意味以外にも発音にも問題がある。
そしてこの言葉が勉強嫌い君に拍車をかける。
――これを『復習』しろよ。
――これは『反復練習』しとけよ。
ヤだ。何度も同じことをするのは。もうわかっているのだからこの範囲は! と言って、テストで悪い点を取るのがオチである。
実に忌々しい言葉だ。復習め。反復練習め。オマエには日本の学生達に対して数えられないほどの余罪があるはずだ。復習をしなさい、反復練習しなさい。軽々しく使わないでくれ。メンドクサさ100%なんだから。
私はこの言葉の呪縛を解き放つ必要があるのではないかと思っている。復習、反復練習をもっと軽い言葉にすべきだ。
もし、私が復習や反復練習に別の名前を与えるとしたら――
――リピる
これでいい。シンプルでいい。言いやすい。使いやすい。
できないところだけをリピる。記憶の精度を上げるためにリピる。実にいい言葉だ。
どうも復習というのは、授業中、先生の言った言葉そのものを思い出して全範囲を網羅的にやらなきゃいけないのではないかという重さがあるように感じる。勿論、そんなことはないのだから先生が復習と言うと、オレの言ったことをすべて覚えとけよ、という感じがして実に苦しい。
本来、復習というのは講義後や問題を解いた後に、自分ができない問題を再確認し、出てきた語句や数式を覚えるチャンスなのであるがどうもそれができない。先生が言う言葉だけを覚えとけばいいと軽んじてしまい、テキストや問題全てを読み込むことをほったらかしにしてしまう。おそらく私は復習の才能がないのだと思う。
復習は授業や講座のもう一度繰り返しではなく、学習能力の精度向上なんだと思えば、少しはやる気が出る。だから授業の内容をすべて思い出すような感じがする『復習
』『反復練習』という言葉ではなく、自分ができない所を補強する意味で『リピる』という言葉を使うようにしようと思う。
……今日のブログはホントにどうでもいい話だったと少し反省しています。