勤労の神様がいないワケ
そういえば、勤労の神様って誰かいるかなと思いながら、ウィキを見てみたら仕事の神様大黒天はいるが、勤労の神様と呼べる神様は何処にもいなかった。あれ? どんなものにでも精霊信仰をしたがる日本人が勤労の神様はいないのか? と頭を抱える事態となった。これは一大事と、世界各国の神話を探す中で、「あ、そうか、勤労の神様はいないのは当たり前か」と改めた。
なぜ、勤労の神様がいないと気づいたのかは、勤労は“自力”でできるものであり、“他力”のものではない。噛み砕けば、勤労というは自分の意志や選択の制御で可能なものであり、天候や恵みを呼び寄せる願いや信仰のようなものではない。
お客様は神様ですとよく言われるのも“他力”という側面から見れば信仰する対象である。商売繁盛を祈願するのも、自分の力ではどうにもならないから神社にお参りするわけである。交通安全、子孫繁栄、健康第一などなど、自分の一人の力ではどうにもならないことを祈願する“他力”が求める信仰心はここから来ていると考えてもいい。
他力というのは浄土真宗的考え方ではあるが、こう考えれば、勤労は“自力”だと見ることができる。勤労は自分の力でコントロールできる“自力”のものであり、誰かに依存する類のものではない。勤労の神様なんて都合のいい存在はいないのは、そういうわけだ。
私が勤労の神様がいると思ったのは、自分自身の力不足を感じているからであり、自信のなさの現れでもあると自己分析できる。……ちょっと泣きたい。
しかしながら、ここで一つ疑問に思うことがある。それは学問の神様は存在することにある。
学問って、結局は自分が勉強しないと力がつかない“自力”のものではないかと思うものであるが、よく考えれば“他力”だと納得できる。というか、書いている間に納得した。
学問の神様と言えば、言わずと知れた菅原道真公であり、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮などに祀られている。平安時代以降から学問の神様として存在し、現在も全国の受験生が彼の下へとやってきている。確かに、学問も誰かから正しく教えてもらう“他力”のものであり、それが人生の基盤となり、自分の力となる。
学問というのは“自力”ではどうにかならないものであり、誰かの力、つまり“他力”が必要なのである。適切な“他力”のベースがあるから学業が“自力”で伸びるわけである。
となると、やはり勤労の神様は必要ではないかという話へとなる。
上司がきちんとした指導があるから部下たちは業務をこなせる。業績が伸ばせるのは適切な“他力”があり、“自力”で働くフィールドが存在する。しかし、その適切な指導が失えば仕事はうまくいかず、サービス残業、有給は取れないなどなど、個人に重い負担がかかる。これは“自力”でできる範疇であろうか?
行政の頑張りで数々の法律ができあがってきたが、それでもまだ改善はされていない。「これは間違えている」「部下の負担が大きい」と会社に訴えれば強い圧力が掛けられ、最終的には退職に追い込まれる。もはや自力ではどうにもならなくなった。
しかしながら、法人格という側面から見たら従業員一人一人の行動はすべて会社の”自力“と見ることができる。だから、勤労は会社の“自力”でできると批判できる。だが、それは論理スリカエに等しい。法人格で神に祈りを捧げることもあるが、ここはきちんと個人の“自力”で見るべきなのである。
勤労は“他力”が必要とされる時代へとなった。勤労の神様が存在すれば、企業はその神を恐れ、サービス残業や労働人災が少しは減ると思う。
でも、それは結局何も解決しない、合理的ではないと言われるかもしれないが、人間、追い込まれたら神様をすがりたくなるものだ。受験でも健康でも恋愛でもありとあらえるものに他力を求めるのは現在でも同じ。だから、勤労の神様ぐらいいてもいいのではないか、と、言ってみる。
で、勤労の神様は誰になるのだろうか? 勤労の神様って、逆に24時間365日、年がら年中働きそうだからな。
……やっぱ、いない方がいいかもしれない。