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羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

想定力のメリットとデメリット

 ツイッターのまとめ”togetterを見ていたらなんだか面白いものを見つけた。それは”ラノベを読んでも読解力は身につかない」について持論展開する人たち”の引用した文だった。

 

「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」の一説より、

 

『――読み手が文脈を作り上げるのです。そして、その文脈に合わせて部分を読み間違えたり、読み飛ばした部分をその文脈に会わせるかたちで想起したりするのです。』

 

……確かに。そう言えば、それで文脈を読み間違えて、文章や英文を間違えたことがあるな……。

 

 いずれこの本は読んでみるとして……、なぜ、こんな間違いをしてしまうのか。それは、すぐ文章の中身を読むために、自分自身がその文章の内容を想像する『想定力』が働いていると考えられる。

 

 私が言う『想定力』は、書き手があることを主張するために読者が予め持ち合わしている知識や経験を総動員して、その主張の内容を予め予想する力のことをさす。

 例えば、ちょっと古いが誰かが「今年のM-1グランプリ面白かったな」と話題を触れるとしよう、そのとき、自分は「あ、一位の銀シャリのことを話すのかな?」「相席スタートはヒトを選ぶよな」とか予め考えられる答えを用意しつつ、「何が面白かったの」と返答する。すると、相手は「勿論、一位のだよ」と答えると、すぐ自分は「あ、銀シャリね」と、話を合わせられる。

 また、ある小難しい文章も予めテーマがわかっていれば、すらすら読めることもできるし、ドラマやアニメの展開もこういう風に進むんじゃないの? と予想することもできる。これが想定力である。

 

 この想定力は日常生活において必要な力である。というより、長年の経験によって無意識に行動しているパブロフの犬よろしく、一種のルーチンワーク化している行動であるといえる。この力が働けば、何をすればいいのかわかっているため、頭がスポンジ状態でも勝手に身体が動くし、何をするのか予想ができる。

 逆に、あなたが店員でお店のカウンターの前で客の注文やクレーム以外に何をするだろうのか? 股間を押さえ付けながらやってきて苦しそうにトイレの場所も聞いてくる訪問者もいることはいるが、たいていは「ご注文を承ります」ぐらいで他にすることはないだろう。

 この想定力が皆の頭に働いているからこそ、無意識の中で常識が存在し、その常識の下で毎日を暮らしている。

 

 さて、想定力について話した所で、そのメリットについて話しておこう。

 

 私はこの想定力で用いて文章を読んでいることが多い。いわゆる速読をしている。想定力の利点は「読むのが速い」「内容の検討がつく」「書き手の主張で立ち止まれる」といったものがメリットと言えよう。

 「読むのが速い」「内容の検討がつく」というのはだいたいわかるかもしれないが、「筆者の主張で立ち止まれる」というのはなんだろうか?

 新書やニュースメディアのコラムなどは書き手の主張がわざと一般とは違う対立関係を立てて、読者を立ち止まらせる文章を書いていることがある。現代文の接続語で「しかし」「だが」とかあれば、重要な文でそこをまとめれば点もらえるよという高校の教師が指摘するように、たいてい、書き手もそうやって、読者立ち止まらせポイントを作っている。(まあ、そういう書き手もいないこともあるが)

 想定したどおりの文章じゃない? じゃあ、ここが大事な点? と、気付き、そこでじっくりと文を読み込む。わからなければ、流し読みしていた所に戻し読みしつつ、その文章の深い所を踏み込んでいく。どちらかという私はこういうタイプの読書法だと自負している。

 

 しかし、この想定力の使い所を間違えると痛い目を見ることがある。それは「書き手の主張とはまったく別のものになっている」。これがデメリットである。

 書き手の主張が別になってしまったポイントは2つある。1つは専門用語や作者だけが用いているキーワードを理解せずに読み込んで、別の解釈をしてしまったこと。知っている単語を拾い読みしているだけで、だいたい中身を理解した気になっていることは、英語を全然読めなかった高校生のときにあることだろう。それと同じように、自分自身の思い込みで相手の文章を勘違いする。たいていは痛い目を見ることなくそのまま本棚の中で眠ることだろう。ある意味それは間違いに気づかないまま読み切った幸せな読書かも知れないが、本の中身を理解したということではないと思う。

 2つは速読するのに夢中になって、文章の文を勝手に自分の頭で書き込んでいくこと。

 

「私がとんこつラーメンが・・・・のは、――――しつこさである」

 

と、読み飛ばしたとしよう。

 ・・・・は大好きな、――――は九州独特と言った言葉を想定して、次へと文章を読み進んでいく。

 

「それに比べて、しょうゆラーメンはなんともまあおいしいものか」

 

 あれ? なんかおかしいぞと読み戻すと、

 

「私がとんこつラーメンが好まないのは、その独特のしつこさである」

 

 というように、文を勝手に想定したことで文章がまったく別のものになってしまう。これは読み飛ばした自分自身が悪いため、書き手自体は悪くない。こういう人間の心理をミスリードを誘うミステリー作家もいるが、たいていの書き手は自分の言いたいこと、思ったことを伝えたいので、そんな意地悪するのはいない、と思う。

 

 と、想定力について話してきたが、この想定力の源となっているのは、幼い頃から自分の肌で感じた知識と経験である。この知識と経験が養っていないと、読書にブーストを掛けてくれないし、間違えた解釈をしてしまう。

 けれども、そんな養った想定力がなくても妄想を働かせて読むことができる。そういう妄想力を働かせた読み方は実に楽しい。脳がどこまでも際限なく伸びていく宇宙のヒモを妄想すれば、ポワンカレ予想の答えに辿りつく気もする。しかし残念ながら公式も理論も知らないから妄想は妄想に過ぎず、答えは笑っておしまい白紙<タブラ・ラサ>である。

 しかしながし、妄想を否定しているわけではない。こういうのができたらいいなと思うのは悪いことではないし、面白い。そういう妄想のスパイスを使い分けながら想定力を働かせば、いつもより楽しく本が読めたり、毎日が少し面白く見えるはずだ。ただ、ありあまる妄想力で筆者が真剣に書き上げた本と向き合うのは摩擦が生じる。となると、本を読めないのは読み手である自分が少しズレた視点で読んでいることにあるのかしれない。

 本を間違えて読むということは、新たな知識の扉を開けてくれる本をただ開けているだけに過ぎず、そこから流れ込む書き手の息吹を感じ取れない。しかし、その感じた書き手の息吹に、自身の想定力と絡めれば、知識だけでなく全く体験したことのない経験を手にすることにもなる。(ただただ、だぁーと文字を流し込み、ああ、読んだ読んだ、となることもあるが)

 

 ところで、この想定力はどうやって養うか。気の利いた書き手なら読書! 人生の経験! チャレンジと意識高いことをいうが、私はそうではないと思う。

 自分自身が「ああ、これは、自分が想定したものだな」と意識の使い分けばそれでいい。無理に背伸びしなくても自分の想定力とは違ったものと、出くわすことはよくあること。

 

 と、言ってみた。

 

 今年もありがとうございました。

 来年も気が向いたら書いてみます。

 

 ……読者の想定通りのモノを書けるヒトがなんとなく羨ましい。