羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

怒るというセーフティーネット、怒らないという社会の破けた網

 

 私は二度、車に轢かれたことがある。一度目は自動車、二度目は自転車だ。どちらがヒドかったというと、自動車だと思うが、残念ながらヒドかったのは自転車の方だ。

 

 一度目は高校生の頃、自転車から片足を地面につけて信号機を待っていたら、その足のふとももがタクシーの側面にぶつかった。運が悪かったのか良かったのかわからないが、遅速で当たったからケガになることはなかった。狭い路地へと曲がろうとして運転技術がなかったから当たったのだろう。

 それに、路地に近すぎた自分自身にも問題があったのだろう。だから、あまり怒ることはなく、去っていくタクシーの後ろ姿を見送っていた。

 

 二度目は一年前、買い物から帰っている時に後ろから自転車にぶつかった。けっこうスピードが出ていたのだろう。ふとももがガンと当って赤く腫れた。

 自転車のタイヤに当たったのはワケがある。目の前にこどもやおじいさんがいて、少し急ごうと横切ろうとした所で、そこで自転車にぶつかった。これは自分のミスだと思った。

 しかし、それは違っていた。その自転車に乗っていた――少年ぐらいの男がイヤホンをつけながらスマホで電話しながら運転していた。さすがにキレた。目の前のこどもやおじいさんにぶつかったらどうするのか!? これは本気で怒るべきだと思い、近くの派出所まで行こうと言って、一緒に来てもらうことにした。

 相手は逃げないようにと自転車のハンドルを触れながら派出所まで向かったのだが、男は自転車から降りた。

 自転車は私の方に倒れかかる。相手は自転車を運べと言った。そして、触るな、とも言ってきた。

 何言っているんだ? こいつ。

 目の前の男の無神経さに殴りたい。そんな衝動が湧き上がった。 

 だから、私はこういった。

「もういい」

 男は安心したカオをし、自転車に乗って去っていた。

 

 もしここで私は怒っていたらどうなっていただろうか。殴っていたのか、それとも、理路整然と責めたてていたのか。しかし、ここは少し横に置いてといて、怒られるはずの男の方を見てみよう。

 ここで男が怒られていたら「これはいけないことだったんだな」と反省するか、「なんでこいつが怒っているんだ?」と相手をバカにしたりと色々と思うはずだ。そこから「もうスマホ運転しない」と行動するか、「スマホ運転するけど、少しは周りをよく見よう」と改めるか、という反省する可能性があったはずだ。

 しかし、私は「自転車に乗りながらスマホ運転していいよ」という怒らない選択肢を取った。私はそう思ってもいないが、怒らなかったから結果的にそうなった。

 男は安心したはずだ。「オレは運がいい。こういう時は、相手を怒らせる行動を取って、逃げればいい」と知った。

 運がいいと思ったはずだ。ラッキーと安堵したはずだ。

 

 けれども、私はそうじゃない。私が取った”怒らない”というのは「もう反省する見込みがない」と彼を見捨てたからだ。

 

 怒らないというのはとても理性的な方法だと思う。「これで怒るのは大人げない」と自制する。「大声で怒ったら恥ずかしい」と我慢する。「相手に何言ってもムダだ」と理解する。「こいつを怒ったらオレはどうなる?」と制止する。「これは自分に害がないから別にいい」と無視する。いずれにしろ、怒らないという行動は自分の利を中心とした頭を使ったものだ。

 一方、怒るというのは感情的だ。痛いから怒る。ムカつくから怒る。腹が立つから怒る。と、自分に害が及ぶから怒る。

 中には、相手に傷ついたらどうするんだ。ヒトサマに迷惑かけたらどうするんだ。もっとしっかりしろ! と、理性さを怒りにねじ込ませてそれをぶつけることもある。

 言わば、怒りというのは自分の気持ちを相手に理解して欲しいから大きなメッセージを渡すわけだ。

 

 二度目の自転車での事故で私が怒らなかったのはそれである。私はメッセージを与えることをやめてしまったのだ。「こういうタイプは何言ってもダメだ。きっと大きな事故を起こす」と未来を見てしまったわけだ。

 ここでできた大人ならきちんと「キミは自転車で人を轢いたのだから、警察をはさんで話をしようか」と言えたはずだったのだが、残念ながら私はできなかった。相手を小馬鹿にし続ける相手の態度を見続ければ、いずれ暴力をふるうことがわかっていた。「怒ったら社会的に損する」と戒めたのだ。

 きっとみんなが全面に怒らなくなったらのはこの「社会的に損するだろう」という損得勘定なんだろう。私は彼をうまく怒ればセーフティーネットの役割をはたすはずだったが、自分の感情を優先して怒らなかった。

 この怒らないという行動によって彼を社会の破けた網を通らせる結果をもたらしてしまった。

 

 この怒らない“社会の破けた網”が知らない間に増えたと私は思う。現に私がそうだった。

 そして社会の破れた網を知った者はそれをもう一度くくろうと舌なめずりする。「こいつは絶対文句を言わないから好きにしてやろう」とヒトを値踏みする者もいれば、「オレは無敵! 今、運いいから!」と自分の運を信じる者もいる。

 痴漢や万引きが常習化するのはこの社会の破れた網をくくった時の旨味、達成感を知ってしまったからなんだろう。そういう達成感は別のものにすればいいものを、自分にしか見えない、自分だけが通れた火の輪くぐりを通り抜け続け、脳内に草を生やし続ける。お花畑なんだろう、その脳は。

 社会の破けた網によってヒトは増長する。そして、知らない間に犯罪をするか、それと同じぐらいの大きなしくじりをしてしまう。冗談に聞こえるかもしれないが、周りが怒らないというのは、社会のセーフティーネットが働いていないということである。

 子供の頃、親から怒られなかったと自慢するコや、仕事場では一度も怒られたことがないと胸を張るサラリーマンはとてもとても立派だと思う。だがそれは、このコは何言っても話を聞かないと残念ながらネグレクトされているか、大きな仕事を任されていないという無能というレッテルを張られているかと、危険信号が点滅している可能性もある。まあ、あくまで可能性の話。

 あと、周りから怒られまくっているんだと、大変自己評価の低い人間もいる。それはセーフティーネットをグルグルと巻き付けられているからと安心しよう。大切にされている。うん。そういうことにしよう。

 

 さて、怒る怒らないという話をした延々と書いていたが、話をまとめると、怒る場面でうまく怒ることができなかったという話で、その後、怒られるはずの相手が、調子に乗るという話で、そして、その調子に乗ったら相手は大きな問題を起こすという話の流れで、ただ単にブログを書いてみた。

 ちょっと希望的観測が入っていない? と思うヒトもいるかもしれないが、私は一度ヤバ過ぎるスリルをうまくすり抜けることができたヤツは、もう一度そういうスリルを楽しむか、またはそのスリルのリスクは取らないと考える人間である。つまり、一度、運任せをしてその運が良かったら、リスク回避なんて考えず、またそれに手を出すのが人間であると思っている。

 怒られるときに怒られないというのは怒られる側にしたら運が良かったと思う。特に悪いことをしたとき、こどもにとってそれは幸運と言える。

 

 しかし、それは幸運だろうか? 大人になった時に不運に転じるのではないか?

 

 怒るべきときに怒ることができなかったそんな私。私に怒られなかった彼はもっと大きな問題に直面した時、どうなるのだろうか?

 そしてそいつが何かしくじってくれたらと悪魔めいた気持ちでいる自分もいる。自転車にぶつかったとき、けっこう痛かった! からだ、と言ってみる。

 

 ……夏休み最期の日だから何か書いてみようと思った所、高校生は一週間前から学校を始めているみたい。読書感想文の話や、宿題の話でもと思ったけど、あまり意味がないと思ったので、こういうことを書いてみました、と。