羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

テレビの魔法が解けた日-2016-01-18

 

 SMAPと言えば、日本に住むヒトなら誰もが知っているスーパーアイドルであり、多くのヒトに夢や希望をもらしてくれた大きな存在であった。

 彼らがテレビに出ると、視聴者は、次はどんなことをしてくれるのかを期待し、同時に彼らはけして私達の期待を裏切らない大きな安心感を与えてくれた。

 

 ところが、SMAPの謝罪会見によってそれは大きく覆された。彼らは深々と頭を下げ、自分達の行動に不手際があったと謝罪し、責任を取る社会人の姿がそこにあった。

 この行動に関して、パワハラだ、BPOだ! という声があがっている。しかし、私にとって気になったものはそれではない。あの謝罪会見によって何か大きなモノを崩れたのだ。

 その大きなものというのはテレビに掛けられていた魔法、すなわち、テレビの安心感というものが崩れたのだ。

 

 家に帰ったらテレビをつけて、それをBGM代わりにして、着替えをして、次は何をしようかなと考えるものである。テレビをなせつけたがるのかは、それは部屋の中で一人だと寂しいからであり、何らかの声が欲しいものである。かといって、歩道で遊んでいるこどもの声をBGMにするには少々うるさいものである。なぜなら、自分で音量を調節することができず、自分の期待するような行動をするはずがないからである。

 ここでいう期待とは、ニュース番組の新しい情報やバラエティ番組の笑い声と言った、テレビをつければ当たり前に送られてくる情報に対する期待を意味する。私たちは現在の情報や少し雰囲気を変えたい、笑いが欲しいなど様々な要因によってテレビをつけて、情報をもらい受ける。そのとき、心の中にあるのは、それらがもたらされるはずであるという期待感であり、その期待感に突き動かされてリモコンを持って、電源を入れるのである。

 

 今回のSMAPの謝罪会見も何らかの期待感を持ってリモコンを手にしたはずである。解散しないでほしい、彼らはこれからどうになるのだろうかという不安感に煽がれて、その気持ちを止めるため、安心感を得ようとテレビを見ていたはずである。

 その結果、2016年1月18日で見たものは、安心感どころか、テレビそのものを伝えてしまった『報道』であった。

 あの報道は、「私達の作っているテレビはこういうところです」というすべてが込められた濃密な数分間だった。おそらくすべてのヒトは謝罪よりも、「テレビ」というぞくりとしたものを目や音やその身体で感じたはずである。もちろん、演出だったと考えれば、そこで思考を止めることができるが、その演出をも越えるにじみ出た恐怖感は忘れることはできない、……テレビはこういうところ、という現実を見せられた瞬間だった。

 そう、あの『報道』によって、安心感を求めていた私達はテレビに対する期待感が崩れてしまった。 

 

 安心感という魔法が解けてしまった私達はこれからどうなるだろうか? おそらく、何も変わらないはずである。いつもどおり、テレビをBGMに日常生活を営み、毎日を過ごすはずである。そして今までどおりテレビに出てくるタレントに期待して、安心感のある笑いやどうでもいいような情報を受け取るはずである。

 だが、時折、目に入るタレントに対して今までと同じように見ることができるのだろうか? 私達は魔法の掛けられたときのまま笑っていられて、その情報を素直に受け取ることができるのだろうか。あの芸能人が言っていたのだから、この商品はいいもの! と鵜呑みにして商品を買うことができるのだろうか……

 昨今、テレビはつまらないと言われているが、それでも一定の視聴者が見続けて、大きな広告効果をもとらしている。番組と企業がタイアップして商品を紹介する番組も少なくない。テレビの効果はまだまだ健在である。

 しかし、魔法を解けてしまった視聴者はその番組を見て、あの『報道』と同じときの感覚を受けてしまったらどうだろうか。果たして視聴者は手に取ろうとするだろうか。安心してテレビに期待していたときの自分と、あの報道を見た後の自分とは少しテレビを見ている質感が変わっているはずだ。

 

 そう、あの『報道』がもたらしてしまったものは、今まで作り上げてきた「テレビ」の魔法を、皮肉にも、テレビ自身が崩してしまったのだ。