羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

サヨナラ英語からのりスタート本

 

 ※ 本文は下にあります。

 

 小学校から英語が導入され、ローマ字の読み方はどう読めばいいのかと騒がれているが、いつから英語を学んでも英語がまったくできないのが現状である。私自身もこどもの頃、親に英会話教室に行かされたものも、教師が言った単語をオウム返しにするだけで学ぶことはなかった。

 まあ、英語ができるためには日本語文法の壁を壊し、英語の発音には有声音以外に無声音があることを知らないといけない。それに加えて、英語を使う言語圏の文化性や宗教観を意識する必要もあるため、英語がハードルの高いものへとなってくる。

 これがこどもの頃からやるのだからさあ大変。言葉の組み立て方が全く違う言語を同時平行でやっていくのだから頭が困惑し、『日本人なんだから英語はできなくていいじゃん』思考になる。サヨナラ英語になるのも仕方ない。 

 いや、それだけならまだいい。英語教師が英語を教えるに値しないレベルに達していないとニュースになっている。しかも、生徒の英語ができないのは教師ではなく生徒のせいになるのだから、こどもの英語ぎらいは拍車にかかる。

 私が高校時代の頃、SV、SVC、SVO、SVOO、SVOCをしっかりと教えてくれた英語教師はいませんでした! と、胸を張って言える。おかげさまでその当時は、英語がまったくできない君になりました。ちくしょー。

 しかし、独学で英語学習をやり直し、英字ニュースが読めるぐらいのレベルにはなった。とはいえ、リスニングや英会話、しっかりとした発音などなど、まだまだやらないといけない所はある。

 

 ――課題が多くなるとどうしても手づかずになってくる。

 

 こうなるとサヨナラ英語をして心をラクにしたい。

 一度ラクを知るとどうしても習慣化としたくなる。こんな心へと傾く中、本屋に寄ってみたら良書と出会ったわけである。

  

□ サヨナラ英語からのリスタート本

  英語は“速く”間違えなさい

 

英語は

英語は"速く"間違えなさい

 

 この本は良書です。

 英語学習書は『ここが変だよ日本人』のようなクリティカル(批判的)なポイントを洗いざらいして、外国人はこうするんだよ、という本があるが、この本はそういった所がない。

 “恥はチャンス”と前向きになれる言葉が多数並んでいて、英語にある苦手意識を感じなくて楽に読める。しかも、中学生でも読める平易な文章であるため、スラスラと何度でも読める。

 

 ・ 100万、間違えればそれだけ英語が習得できる、

 ・ 5分間でできる勉強法、

 ・ 英語のメンタルケア、

 

 などなど、英語の学習書以外にもコーチング本としても役に立つ。もし、文法や長文でイヤになっている中でこれを読み返せば、失ったやる気が取り戻せる、いわば消費しないドリンク剤的な本として使える。本棚で手に取れる位置に置いときたいそんな一冊だ。

 

 ただ、受験や資格を取るための英語学習本ではない。センターで9割取る、TOEICで満点取るといった英語戦略学習本ではないということだ。受験で良い点を取ればそれでいい、と考えるのであれば、他の本を選んだ方が良いだろう。

 

 それと、この本はタイトルと中身が少しズレている。

 この本の中には「英語は一朝一夕でできるものではない」と読める所がある。あれ? タイトルと違わなくないと思うがそれは違う。『英語をすぐできるようになるには”速く“間違える』ということではなく『英語をしっかり長く付き合っていくためには”速く”間違えて正確な英語を身につける』という意味である。

 なので、英語を短く学習したいインスタント英語を望むヒトは、この本はオススメできない。英語を長く勉強するためのガイドブックを探しているのであれば、速く手に取りなさい、と、言ってみる。

 

 英語に対して苦手意識を持っているヒトも、もう一度英語をやり直したいというヒトも、本気で英語からサヨナラしたいヒトも、この本を読んでみるといいと思う。この本が良書ならそれでいいし、この本はダメだと別の本を手に取ってみる。

 

 “速く”間違えるというのは『良いこと』を見つけるキッカケになる。

 

 と、英語学習書以外で良いことを学べた気がした。

 

英語は

英語は"速く"間違えなさい

 

 

――血反吐の『自己愛』マラソンで自己を肯定する。

 

 一週間前、なんとなく図書館で手にした一冊の本がある。 

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

 

  タイトル通り『自己愛』について書いてる本である。感想についてはあまり話したくない。感想としてはなんというか“距離が近すぎる”。STAP細胞事件や西鉄バスジャック事件などなど世間を驚かした事件を『自己愛』をテーマに切り込んでいるのだが、断定的であり、それ、きちんと調べたの? と、言いたくなるところもある。アマゾンでの評判も描き下ろしだと言うのに芳しくなく、作者のクセが出てしまった一冊である。

 仮に、これをビブリオバトルでビブッてください(この本をみんなに読ませてください)と言われても、ビブりポイント(この本を読ませたいポイント)が思いつかない。「『自己愛』は危険です! 『自己愛』には気をつけましょう!」としか言えず、みんなをビブビブとビブらせることができないのである。

 本の内容についてあまり誉めていないように思われるが、意外といいことは書いてある。でも、作者と題材との距離が近すぎて、まるでそこにいるかのようにレポを書いてるんじゃないの? と、思ってしまい、ちょっとイライラする。そういう意味では危険な本とも言えるため、悪評高いのも納得である。そんな偏見を外した上でこの本を読めば、作者の言いたい『自己愛』についてわかるかもしれない。

 

 と、本の感想はこれぐらいにして。

 

 今回、『自己愛』について調べていたのは、最近見かけるニュースから『自己愛』に関する事件が多いと感じたからである。

 ここで『自己愛』というのは自分を賛美すること。つまり、「自分はまっとうなことをしているから何も非難されない」と、自分を正当化することだと、規定しておこう。

 自己の後に続く言葉と言えば、自己アピール、自己演出、自己評価、自己満足、自己中心的などなど、今の日本語、自己+単語で様々な言葉ができあがる。これだけ“自己”という言葉にこだわりだしたのは、やはり“自己責任”という言葉が現代の日本人の胸に突き刺さったからだと思う。

 まあ、自己責任論に関してとやかく言った所で『自分のやったことは自分のケツで拭け!』というのがオチなので、それについては何も言わない。ただ、それまでは『ジコチュー』と会話の中で軽くいじられる程度でしかなかった“自己”が、現実問題に関わる『自己責任』へと重くのしかかるものになってしまった。重たくなった“自己”を克服するために、ひとびとはビルディング、自己能力を高めるようになった。

 今の日本の社会が“自己”を形成し、それを売り込む地盤になっている。うまく自己を売れればそれでいいのだが、残念ながらそれをすべて買ってくれるヒトはいないのが現状である。

 それに加えて、うまく“自己”を形成できない問題が出てくる。経済的問題、家庭的問題、教育的問題、就活的問題などなど、現在の人間はどうしても“自己”を盛りがちだ。

 そして、その盛った“自己”がズレてしまい、それが虚飾へと落ちる。誰かにそれがウソだと指摘されたとき、「すいませんウソです」と認めればいいのだが、「いえ、ホントです」といつまでもウソを認めない。それを自分が傷つかないためにウソをついている自己愛まみれの人間だと指摘されるわけだ。

 ただのウソならかわいらしいが、そのウソには生活がかかっているのだからタチがわるい。けれど、今の社会土壌では“自己を盛る”のが普通なのである。しかし、あまりにも“自己”を盛りすぎて地盤沈下を起こしているのも珍しくない。

 自己を盛ることがコントロールできず、それがウソだと指摘される。それが世間で言う「あのヒトは『自己愛』が強いから」という批判につながっていると見ていいだろう。

『自己愛』が作られるのは、そのヒト自身が自分を傷つけないためにウソをつくのはなく、周囲の環境のプレッシャーと対抗するために作り上げてきた“自己”をうまくコントロールできず、盛った“自己”がずれ落ちて、醜い部分がさらけ出してしまい、最終的にそれが表面化した“自己”だと考えられる。一生懸命ガンバって作り上げたビルディングが崩れたのだ。

 表面化した“自己”が醜いものと思えるのは、その人間の実力不足と喪失感を目にしたからである。ところが、当事者はまったく気づかない。それもそのはず、盛った“自己”はトカゲのしっぽのようなものであり、切り落とすことができる。しかも、トカゲのしっぽと違って神経がつながっていないからそうそう痛みを感じない。けれど、見ている側は違う。盛った“自己”もそのヒトだと見ているのだ。

 

 社会でうまく生活するために“自己”を作りあげなければならない。ただ、“自己”を作るには何かと盛らないといけない。それがウソなのか、自分の実力で勝ち取ったものなのかは、そのヒト次第。ただ、あれもこれも一人の人間にやってもらいたいとお願いする社会と対抗するためには、それなりの”自己”を持たなければならない。

 SNSを駆使して自己演出。資格学歴で自己アピール。

 誰もが納得させる“自己”を見せることで、自分が存在できる。けれど、その“自己”を手にするには何かと時間もかかるしお金もかかる。しんどい。つかれる。おわりがみえない。

 ――血反吐の『自己愛』マラソンで自己を肯定する。

 と、そんな視点で社会を切り込んでみたら絶対鬱になるのでやめましょう。責任は持ちません。

 

 自己愛について考えたら、自己愛モンスターになってしまった! というオチでおわりにしてください。はい。

 

 

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

 

 

 なお、この本はどうやってもビブレませんのであしからず。

 

 

勤労の神様がいないワケ

 そういえば、勤労の神様って誰かいるかなと思いながら、ウィキを見てみたら仕事の神様大黒天はいるが、勤労の神様と呼べる神様は何処にもいなかった。あれ? どんなものにでも精霊信仰をしたがる日本人が勤労の神様はいないのか? と頭を抱える事態となった。これは一大事と、世界各国の神話を探す中で、「あ、そうか、勤労の神様はいないのは当たり前か」と改めた。

 

 なぜ、勤労の神様がいないと気づいたのかは、勤労は“自力”でできるものであり、“他力”のものではない。噛み砕けば、勤労というは自分の意志や選択の制御で可能なものであり、天候や恵みを呼び寄せる願いや信仰のようなものではない。

 お客様は神様ですとよく言われるのも“他力”という側面から見れば信仰する対象である。商売繁盛を祈願するのも、自分の力ではどうにもならないから神社にお参りするわけである。交通安全、子孫繁栄、健康第一などなど、自分の一人の力ではどうにもならないことを祈願する“他力”が求める信仰心はここから来ていると考えてもいい。

 他力というのは浄土真宗的考え方ではあるが、こう考えれば、勤労は“自力”だと見ることができる。勤労は自分の力でコントロールできる“自力”のものであり、誰かに依存する類のものではない。勤労の神様なんて都合のいい存在はいないのは、そういうわけだ。

 私が勤労の神様がいると思ったのは、自分自身の力不足を感じているからであり、自信のなさの現れでもあると自己分析できる。……ちょっと泣きたい。

 

 しかしながら、ここで一つ疑問に思うことがある。それは学問の神様は存在することにある。

 学問って、結局は自分が勉強しないと力がつかない“自力”のものではないかと思うものであるが、よく考えれば“他力”だと納得できる。というか、書いている間に納得した。

 学問の神様と言えば、言わずと知れた菅原道真公であり、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮などに祀られている。平安時代以降から学問の神様として存在し、現在も全国の受験生が彼の下へとやってきている。確かに、学問も誰かから正しく教えてもらう“他力”のものであり、それが人生の基盤となり、自分の力となる。

 学問というのは“自力”ではどうにかならないものであり、誰かの力、つまり“他力”が必要なのである。適切な“他力”のベースがあるから学業が“自力”で伸びるわけである。

 

 となると、やはり勤労の神様は必要ではないかという話へとなる。

 上司がきちんとした指導があるから部下たちは業務をこなせる。業績が伸ばせるのは適切な“他力”があり、“自力”で働くフィールドが存在する。しかし、その適切な指導が失えば仕事はうまくいかず、サービス残業、有給は取れないなどなど、個人に重い負担がかかる。これは“自力”でできる範疇であろうか? 

 行政の頑張りで数々の法律ができあがってきたが、それでもまだ改善はされていない。「これは間違えている」「部下の負担が大きい」と会社に訴えれば強い圧力が掛けられ、最終的には退職に追い込まれる。もはや自力ではどうにもならなくなった。

 しかしながら、法人格という側面から見たら従業員一人一人の行動はすべて会社の”自力“と見ることができる。だから、勤労は会社の“自力”でできると批判できる。だが、それは論理スリカエに等しい。法人格で神に祈りを捧げることもあるが、ここはきちんと個人の“自力”で見るべきなのである。

 

 勤労は“他力”が必要とされる時代へとなった。勤労の神様が存在すれば、企業はその神を恐れ、サービス残業や労働人災が少しは減ると思う。

 でも、それは結局何も解決しない、合理的ではないと言われるかもしれないが、人間、追い込まれたら神様をすがりたくなるものだ。受験でも健康でも恋愛でもありとあらえるものに他力を求めるのは現在でも同じ。だから、勤労の神様ぐらいいてもいいのではないか、と、言ってみる。

 

 で、勤労の神様は誰になるのだろうか? 勤労の神様って、逆に24時間365日、年がら年中働きそうだからな。

 ……やっぱ、いない方がいいかもしれない。

  

玩具性の線引き

 

 現在のおもちゃというのはこどもの想像性を広げる知的教育面としての有効面ばかり取りざたされている。これで遊べばこどもの力がつく! と何処かの自己啓発書みたいな感じを受ける。

 しかしながら、こどもはそういうおもちゃを説明書通り使うかというとそうではない。分解したり、床にたたきつけたりと、オリジナルの遊び方で満足するものである。なんでこういう風に遊ばないの! と、親は高望みをしたがるが、他の遊び方もあるのではないかと“模索するこどもの想像性”というのはそこにあるのだと私は言いたい。

 

 と、よくある新書的な書き出しで始めたが、今日は玩具性について話したいと思う。というのも、玩具性について書いてある本を探しても何処にもなかったというのが本音である。つまり、自分が今、思ったことを、確認するために、このブログで書こうとしているわけである。

 

 玩具性は、おもちゃ屋で売られている”こどものおもちゃ”というくくりではなく、自分の行動によって自分の期待通りに動いてくれるものだとしたい。

 

 こどもはおもちゃを見つけると、それに目を奪われ、そして触れたくなる。止まっているおもちゃであれば、自分からそれを動かそうと手に持ち、ブンブンとそのおもちゃを動かす。自分でそれを動かしているのだと認知し、キャキャキャと喜ぶ。

 ところがテレビアニメで出てくるヒーローものを見た場合、それが変わってくる。ヒーローが使うひっさつわざを真似るカタチで遊び始める。「ライダーキック」「ライダーパンチ」「プリキュアの美しき魂が邪悪な心を打ち砕くッ!」と、ヒーローの技をなぞらえることを楽しみ出すようになる。このおもちゃはこうやって遊ぶんだとこどもが知るはずのないおもちゃ制作会社から提示した正しい解答を出すようになる。無限にあるはずの想像力が一つに収束された瞬間だ。

 では、玩具性が失われたというと失われてはいない。確かに、想像力を失った点では玩具性はなくなった。けれど、おもちゃが自分の期待通りに動いてくれる点では玩具性というのは存在している。想像力を無限に広げる天才育成キットではないことをここで一度、確認しておきたい。

 

 玩具性についてもう少し噛み砕こう。テレビを見ることも玩具性を刺激する。

「このキャラはアホだからアホな行動する」という認識でテレビを見ると、そのとおりになってくれた。面白い。嬉しい。玩具性というのはそういうもの。「このキャラはヒーローだから正義な行いをする」と認識でヒーロー物を見ると、そのとおり動いてくれた。楽しい。嬉しい。と、こういう風に自分の思った通りにキャラが動いてくれることが玩具性を刺激する。

 売れている日本のyoutuberはそういうこどもの玩具性を刺激できるヒトが多い。自分では到底食える量ではないおかしを1000コ以上買った動画を上げるyoutuberがいるが、こどもの玩具性を刺激するには十分なものである。「すげぇ!」「全部食うの?」と、自分の家庭では到底できないことをしてくれるネット上のヒーローはスマホの向こう側に存在する。

 玩具性は自分が触って動かすおもちゃ以外にも、テレビ映像から自分の脳内で刺激される。また、その刺激を共有し合って、友だちとコミュニケーションを取ることができる。玩具性は一人だけで浸り続けるのではなく、誰かと交流できる共感性を持つものでもあるため、現在において必要な感性と言える。

 

 ところで玩具性は鍛えたらどうなるのだろうか? そこら辺は私も専門家ではないからわからないが、玩具性を適切に鍛えたら、様々な状況下において適切な行動を打ち出せる想像力と、話題の共感性を持つ人間へと育つと思う。けれども、その玩具性を間違えて鍛えられてしまったら、自分が王様で周りにいる人間をおもちゃと見立てる危険性もはらんでいる。

 例えば、玩具性の線引きができないで誰かとコミュニケーションを取ったらどうだろうか。自分の命令どおりに動いてくれる人間を大切にし、命令どおりに動いてくれない人間を人間ではないと思ってしまう。人間をおもちゃと見立ててコミュニケーションを取るのだから期待どおりに動いてくれないと腹が立つ。「なんでこれができないの?」「なんでこうやってくれないの?」と、おもちゃが自分を裏切っている感じがして、イライラが募り、壊したくなる。まあ、人間を壊すことはないと思うが、このヒトを下に見るように育つ可能性がある。玩具性の線引きは大切だと考えられる。 

 

 こうやって見ると玩具性というのは幼少期の頃から人間の性癖を育成する大変危険な代物なのかもしれない。玩具性の線引きを誰からも教えられず、自分でも気付かず育っていたらどうなるのだろうか。特に両親共働き時代において、親のいないこどもたちはスマホやゲームに釘付けになっていく。こどもの玩具性はとめどなく育成されるのは仕方がない。

 とまあ、不安を煽った所で、今日のブログはこのへんで。

 

 あ、そうだ。

 なんで、こんなことを書いたかというと、親が自分のスマホをこどもに渡すシーンを見かけたのがきっかけである。誰かがプレイしたゲーム動画を無料に見ていると、「ゲームを買う余裕がないのか。プレイしたら絶対楽しい」と胸の内につぶやいた。

 そのことをこどもを持っている友人に話すと、「いや、そうじゃない」と言われた。「じゃあ、なんで動画を見せているか」というと意外な言葉が来た。

 

「こどもは黙って動画を見てくれる」

 

誰かに誘われても上座に座るな!

 

 社会人マナーにおいて上座は口酸っぱくなるぐらい注意されるものであり、また、新入社員が上座をわかっていないと、ついついそこは上座だろうと? 口走ってしまうようなものである。それだけ大事なものであるかというと人よりけりであるが、私にとって、上座というのは意外とストレスが溜まる場所だというのが最近になってわかるようになった。

 え? 会社やホテルのカフェにあるソファでくつろげる最高の場所じゃないの?

 いやいや、最高じゃない。逆に最悪な場所である。どうして最悪だというと、誰かと会話する際、“逃げる”という行為ができなくなる場所だからだ。

 ここでいう”逃げる”は相手から与えられた選択に対して、ノーと言える立場でなくなることを言う。意外だと思うがノーと言うためには経験と胆力、すなわち会話力が必要である。それがなければ、ただただ感情で押し切らなければならない。仮に感情で押し切った場合、後から人間関係の構築に多大な影響与えてしまい、最悪の結果を迎えてしまう。これはよくない。ストレスだ。上座に座るというのはけっこうハードなものだ。

 こういうことを考えるようになったのは、カフェで読書をしているときに、何らかの勧誘活動を受けていた女性を見たからである。その女性はだいたい30歳前後か。その女性は次から次へと言葉を足していくセールスマンの話をいやいやながら聞いていた。断る状況を見えなくて目線が泳いでいた。しかも、その女性は最もカフェの出入口から遠い場所の上座に座っていた。

 ――ああ。これはやられるな。

 自分の立場を守りつつ、相手のプライドを傷つけないする日本人にとって、こういう場所を取られたらけっこうまずいものである。セールスの地政学が働いて、相手にノーと言えないマイナス補正を掛けることができるのだ。

 そういえば、私もジュエリーの勧誘を受けて、こういう状況に追い込まれたことがある。まあ、お金がなかったから1カラットたりとも買う気なんてなかったが、あのときもセールスの地政学が働いていたのだなと思う。壁際に追いこまれて目の前に二人、横に一人にするポジショニングをかまされた気もするが、それでもノーをつっぱしった。ただハッキリとノーと言えない雰囲気を作り出していたため、長時間沈黙していたことを覚えている。今になってわかったが、相手は本気にジュエリーを買わせようとしたのだと気づいた。考えてから買わす気はなかったのだ。

 こう考えてみると、上座というのは誰かをダマす場所なのかもしれない。セールスマンがお客を上座に座らせるだけで精神的に追い込むことができて、ノーと言わせない。作用が働く。これは怖い。

 もしかすると、日本人はノーと言えないと指摘されるが、ノーと言えないのは人間関係のこじれを怖れている以外に、今自分のいる場所に何らかの問題が生じている可能性がある。上下関係があるのならまだしも友人関係でノーと言えないのなら、逃げ場のない上座に座らされているのかもしれない、と、言ってみる。

 

コンビニの立地問題

 コンビニの店舗は2016年度でおよそ55000軒近くに膨れあがり、日本の人口を1億2000万人として数えると、コンビニ1軒あたり約2200人が通うという計算となる。勿論、これはただの計算であり、コンビニ一軒あたりどれだけの人数が通うのかは様々な要素が含まれる。値段、サービス、店舗の広さ、駐車場が完備か、などがあるが、やはりいつでも行きたくなるような利便性の高さこそが、コンビニに求められる条件と言える。

 となると、コンビニで一番求められる条件というのは“場所”と言えるはず。「なんかないかな」「ちょっとコーヒー飲みたいな」と、ぶらぶらと足を運んでしまう場所が、コンビニであるはずだ。そんなお客の目線に合わせるためにも、コンビニは大通りでわかりやすい所に建っているのが、基本だと思う。

 なのに、なのにだ! なぜそんな辺鄙(へんぴ)な所に、コンビニ建ってるの!?と、あ然となることが多々ある。まあ、病院や市役所の中にコンビニがあるのは色々と助かるし、もっと増やしてもらいたいところだ。しかし、コンビニは雨後のたけのこのごとく、にょきにょきと、予想できない場所に立地する傾向にある。

 あるときはファミレスの跡地に立地、カレー店の跡地に立地、あるときはコンビニの1つ飛ばしてそのお隣に立地するという、『これ、ホントにここに必要ですか?」と言いたくなるような状態となっているのが、これが現在のコンビニの立地問題である。居抜き物件だからゼロから建てるよりかはマシなのはわかるが、一階フロアでテナント募集という立て札があれば、すぐそこはコンビニとなる。ちゃんとこの周辺にいる住民を調査しているのか、不安になりそうだ。

 

 さて、こんなどうでもいいようなコンビニ事情についてブログで書いているのは近所でめでたく? 新たなコンビニができたからである。大通りでコンビニの男性店員(だいたい50近く)がビラを配っていたので、そのビラを受け取ると、車がギリギリ二台通るような入り組んだ場所に問題のコンビニができた。

 

 ……行く?

 

 不便過ぎる。とてもじゃないが不便過ぎる。何処にあるのかわからないのは致命傷。いくらサービスが良くても、わざわざそこまで足を運びますか? と、ビラを受け取ったときにそう思ってしまった。

 しかもだ。そのコンビニからおよそ250メートルに同じチェーン店のコンビニがある。駐車場が大きく、店も広い。店員の質もよく、メインストリートにある。まさに近くにあるととても嬉しくなる、ザ・コンビニなコンビニである。

 また、問題のコンビニから逆の方向にだいたい350メートルぐらいにも同チェーン店のコンビニがある。そこは大通りにはないが、大きな駐車場完備で中学校や団地に近い地元密着型のコンビニである。

 そんな場所に挟まれた小道に問題のコンビニがある。

 

 ……行きますか?

 

 コンビニの運営はとても苦しいのは恵方巻きのノルマからよくわかる。どんなせっせっと働いても爪に火を灯すぐらいの利益にしかならない。

 コンビニは場所こそが大事だというのに、問題のコンビニは大通りから外れた小道に沿った所にある。厳しいことを言うかもしれないがこんなところは目的を持たないと行くことはない。

 しかし、問題のコンビニは運良く病院の近くにある。そういう意味ではとても便利と言える。だが、車の往来の激しい道でご年配の方々が通うことができるのかという問題もある。いずれにせよ、もう少し適切な場所にコンビニが建てなかったのかと言いたくなる。

 

 脱サラしたヒトがコンビニ経営にチャレンジした気持ちはわかる。しかし、もう少し計算はできなかったのか。私はそういう疑問を感じる店は数年で閉店ガラガラとなるから怖い。価格やサービスが同一のコンビニチェーン店で強みとなるのは場所だ。

 

 最近、地政学の本が流行っているから、商売の地政学という本を誰かが書くといいかもしれないと言ってみる。絶対、売れると思う。

 

”詰め”と”諦め”

 

 いろんな場面で大切なものが色々とあるが、そのなかでもこれが大事! と、なかなか気づかれない代物というのが『詰め』だと思う。

 

 例えば、大学受験や資格試験である程度まで勉強をしたが、あと一歩というところで点数が取れないというのはおそらこの”詰め”が甘いのだと思う。公式や単語、専門用語は覚えているが、どこでどれを使えばいいのかというのはわかっていないのはまさしくこれ、詰めが甘い。試験の時間配分の使い方が予定よりオーバーしてしまうのもそれ。2、3分遅れただけでも致命的になることも少なくない。

 しかし、そんなの”詰め”の甘さに気づかず、自分は大丈夫と思ってしまうもの。そしてテストの結果が悪ければ、なんで取れなかったんだと肩を下ろす。それならまだいいが、自分には才能がない、向いていないのかも、と、”諦め”に走ってしまう。そうなると試験どころか勉強そのものを放り出してしまうサイクルへと陥ってしまう。”詰め”の甘さが”諦め”になるのは別におかしいことではない。

 

 それでは詰めの学習方法はどうすればいいのかだろうか? 一番手っ取り早いのは試験本番を想定した模試を受けることだと思う。模試を受けながら、自分の心のつぶやきを問題用紙の片隅にでもメモを取れば、詰めるべき穴が見えてくる。とはいえ、試験本番を想定しているのだからそんなヒマするぐらいなら1点2点を取った方がいいと脳みそはそっち好むはずだから難しいところだ。

 となると、次は”詰め”の学習段階をどの時点でするべきなのかという話となる。何かを学ぶときは予習→講義→復習→定着というのが基本(かな?)だと思うし、試験の前では、復習ノートの確認→問題集→間違えた所の確認→問題の復習というサイクルが好ましいところだが、ここまでやってもまだ詰めの段階に来ているとは言えない。ここまでの復習を2,3回程度ぐらいしかしていないからだ。

 復習を何十回すれば詰めることができるのか? 残念ながらそうだと思う。しかし、復習の時間を1回30分かけろというわけではなく、ノートをさらっと見て、「ああ、ここはこういうことだったんだな」と1,2秒間で脳内バタフライエフェクトが起こったような感覚を覚えればそれでいいと思う。そして、問題集もさらっと見て、「ああ、ここはこうやって解いたんだな」と脳内バタフライエフェクト2が起こったような感覚になればいいと思う。そうやれば、自然と学習内容については”詰め”ができていくと思う。

 

 しかし、ミヒャエル・エンデが危惧した時間を盗まれている現代人においてはノートを見る時間でさえも時間が惜しい。電車内でスマホをいじくるのは好きなクセに、血なまぐさく問題を解いたノートを見るのはなぜかイヤ。そりゃ、電車内でお目こぼしにも程がある汚らしいノートを見るなんて恥ずかしいし見せたくもない。

 電車内でゲームをしたり、化粧したり、コーラを飲みながらスナックをばっさばっさと食べている輩がいるのに、なぜかこういう真面目ぶったことに関してはうまくできない。ある意味、ここでも勉強をすることがが恥ずかしいという訳のわからない羞恥心が働いて、”詰め”を”諦め”ている。

 言い換えれば、そんな必死なことをしてもこんなところでしているなんて日頃から勉強不足じゃないの? と、いうあなたの人生のこれからがわかっていますよ、という陰口が聞こえているからか、ノートを見ない。

 

 閑話休題

 

 さて、ここで個人的に”詰め”の学習方法を1つ。

 

 一度目の学習が終わって問題集を解いて学習内容が定着した後で、もう一度軽めのノートを書いてみる。ただし、そのノートは間違えても重いものは絶対書かず、自分が学習した内容を思い出すことができる想起ノートを作る。すなわち、脳内バタフライエフェクト3完結編とも言える軽めのノートを作るわけだ。

 もうすでに仕上がった母艦ノートは完成しているのだから後は日頃から記憶を引き出す想起ノートがあれば1秒でも復習ができる。これでダメ押しに”詰め”ることができる。

 ただし、そのノートを書きすぎないこともまた1つ。かといって、問題一つ一つごとに1ページ使うのももったいない。個人的には「問題を書いておいて、横にちょこちょこと解答となるヒントを書いておく」のがおすすめ。解答はもう問題集やテキストにあるから大事なのはそのプロセスが脳内に存在しているかにある。最終的に詰める場所はノートでなく、脳にあるからだ。

 まあ、私の場合、学習の詰め方としては広い広い基本レベルの問題集を試験1週間前(大学受験なら2週間前、模試は全て終わらせていること!)にして、弱点をあぶり出すのがオススメ。この時の使う時間は想定時間の半分以下、またスタミナが続く限り全問解く。

 ここで問題なのは立ち止まること。時間を使う問題なら良いが、問題に立ち止まるということはその問題と解き方を知らないということだ。立ち止まったら遠慮なく解答を見る。そして次、と終わるまで続ける。

 もしあまりにも立ち止まるのなら、それはもう”詰め”の段階ではなく、まだ問題を解く段階、つまり、定着前の状態だ。高得点は望めないと覚悟を持って、その問題を覚えるつもりで覚える。

 問題を解き終えて、試験の前の日、その問題集をパラパラと読んで、バタフ……と、もういいだろう。とにかく、軽くてもいいから振りかえよう。

 

 後、本番試験用の”詰め”もある。計算ミスが多発するのなら他の問題に移って、落ち着いてから解く。見直しのために次の問題へ行くと言ったリカバリーポイントの設置。ここは速く解く、ここは時間が必要だと気づくショートイージー・ロングディフィカルト(即易難問)の特訓。1つの問題にこだわりすぎて時間を多く使う性格か。図は小さめで多く用意するか、それとも大きめにしとくかと問題ごとに考えておく、などなど。

 やはりこれらの詰めを知るのは模試を受けるか、問題解くときに誰かに添削してもらうと言ったコーチング(先生じゃなくてもその問題を解けるレベルの人間)を受けた方がいいかもしれない。ここで大切なのは自分が満足……とまで行かなくても良いが、とかく納得した解答を提示するということ。それが”詰め”の学習につながる、と、言ってみる。

 

 あ、そうそう。

 昨年の12月ぐらいか。私が地下鉄に乗っていると、塾帰りの小学六年生かな、そのコが私の隣に座ると、一目散で難関中高算数の問題集を開いて解き出した。それを見せびらかせいたのかどうか知らないが、ボクはガンバっているぞ、という姿を見た。

 そのとき、私は、ああこれはXを使わないで解くのか? とか思いしつつ、電車に降りた時「あ、これがこのコにとって電車が”詰め”の場所なんだな」と、なんとなく感じた。

 

 小学生が電車内で勉強を”詰め”ていた。大人は何かを”諦め”る前に、その何かの”詰め”について、もう少し考えてみるのもありなのかもしれない。

 

 ちなみに、これは事実です。