羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

勤労の神様がいないワケ

 そういえば、勤労の神様って誰かいるかなと思いながら、ウィキを見てみたら仕事の神様大黒天はいるが、勤労の神様と呼べる神様は何処にもいなかった。あれ? どんなものにでも精霊信仰をしたがる日本人が勤労の神様はいないのか? と頭を抱える事態となった。これは一大事と、世界各国の神話を探す中で、「あ、そうか、勤労の神様はいないのは当たり前か」と改めた。

 

 なぜ、勤労の神様がいないと気づいたのかは、勤労は“自力”でできるものであり、“他力”のものではない。噛み砕けば、勤労というは自分の意志や選択の制御で可能なものであり、天候や恵みを呼び寄せる願いや信仰のようなものではない。

 お客様は神様ですとよく言われるのも“他力”という側面から見れば信仰する対象である。商売繁盛を祈願するのも、自分の力ではどうにもならないから神社にお参りするわけである。交通安全、子孫繁栄、健康第一などなど、自分の一人の力ではどうにもならないことを祈願する“他力”が求める信仰心はここから来ていると考えてもいい。

 他力というのは浄土真宗的考え方ではあるが、こう考えれば、勤労は“自力”だと見ることができる。勤労は自分の力でコントロールできる“自力”のものであり、誰かに依存する類のものではない。勤労の神様なんて都合のいい存在はいないのは、そういうわけだ。

 私が勤労の神様がいると思ったのは、自分自身の力不足を感じているからであり、自信のなさの現れでもあると自己分析できる。……ちょっと泣きたい。

 

 しかしながら、ここで一つ疑問に思うことがある。それは学問の神様は存在することにある。

 学問って、結局は自分が勉強しないと力がつかない“自力”のものではないかと思うものであるが、よく考えれば“他力”だと納得できる。というか、書いている間に納得した。

 学問の神様と言えば、言わずと知れた菅原道真公であり、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮などに祀られている。平安時代以降から学問の神様として存在し、現在も全国の受験生が彼の下へとやってきている。確かに、学問も誰かから正しく教えてもらう“他力”のものであり、それが人生の基盤となり、自分の力となる。

 学問というのは“自力”ではどうにかならないものであり、誰かの力、つまり“他力”が必要なのである。適切な“他力”のベースがあるから学業が“自力”で伸びるわけである。

 

 となると、やはり勤労の神様は必要ではないかという話へとなる。

 上司がきちんとした指導があるから部下たちは業務をこなせる。業績が伸ばせるのは適切な“他力”があり、“自力”で働くフィールドが存在する。しかし、その適切な指導が失えば仕事はうまくいかず、サービス残業、有給は取れないなどなど、個人に重い負担がかかる。これは“自力”でできる範疇であろうか? 

 行政の頑張りで数々の法律ができあがってきたが、それでもまだ改善はされていない。「これは間違えている」「部下の負担が大きい」と会社に訴えれば強い圧力が掛けられ、最終的には退職に追い込まれる。もはや自力ではどうにもならなくなった。

 しかしながら、法人格という側面から見たら従業員一人一人の行動はすべて会社の”自力“と見ることができる。だから、勤労は会社の“自力”でできると批判できる。だが、それは論理スリカエに等しい。法人格で神に祈りを捧げることもあるが、ここはきちんと個人の“自力”で見るべきなのである。

 

 勤労は“他力”が必要とされる時代へとなった。勤労の神様が存在すれば、企業はその神を恐れ、サービス残業や労働人災が少しは減ると思う。

 でも、それは結局何も解決しない、合理的ではないと言われるかもしれないが、人間、追い込まれたら神様をすがりたくなるものだ。受験でも健康でも恋愛でもありとあらえるものに他力を求めるのは現在でも同じ。だから、勤労の神様ぐらいいてもいいのではないか、と、言ってみる。

 

 で、勤労の神様は誰になるのだろうか? 勤労の神様って、逆に24時間365日、年がら年中働きそうだからな。

 ……やっぱ、いない方がいいかもしれない。

  

玩具性の線引き

 

 現在のおもちゃというのはこどもの想像性を広げる知的教育面としての有効面ばかり取りざたされている。これで遊べばこどもの力がつく! と何処かの自己啓発書みたいな感じを受ける。

 しかしながら、こどもはそういうおもちゃを説明書通り使うかというとそうではない。分解したり、床にたたきつけたりと、オリジナルの遊び方で満足するものである。なんでこういう風に遊ばないの! と、親は高望みをしたがるが、他の遊び方もあるのではないかと“模索するこどもの想像性”というのはそこにあるのだと私は言いたい。

 

 と、よくある新書的な書き出しで始めたが、今日は玩具性について話したいと思う。というのも、玩具性について書いてある本を探しても何処にもなかったというのが本音である。つまり、自分が今、思ったことを、確認するために、このブログで書こうとしているわけである。

 

 玩具性は、おもちゃ屋で売られている”こどものおもちゃ”というくくりではなく、自分の行動によって自分の期待通りに動いてくれるものだとしたい。

 

 こどもはおもちゃを見つけると、それに目を奪われ、そして触れたくなる。止まっているおもちゃであれば、自分からそれを動かそうと手に持ち、ブンブンとそのおもちゃを動かす。自分でそれを動かしているのだと認知し、キャキャキャと喜ぶ。

 ところがテレビアニメで出てくるヒーローものを見た場合、それが変わってくる。ヒーローが使うひっさつわざを真似るカタチで遊び始める。「ライダーキック」「ライダーパンチ」「プリキュアの美しき魂が邪悪な心を打ち砕くッ!」と、ヒーローの技をなぞらえることを楽しみ出すようになる。このおもちゃはこうやって遊ぶんだとこどもが知るはずのないおもちゃ制作会社から提示した正しい解答を出すようになる。無限にあるはずの想像力が一つに収束された瞬間だ。

 では、玩具性が失われたというと失われてはいない。確かに、想像力を失った点では玩具性はなくなった。けれど、おもちゃが自分の期待通りに動いてくれる点では玩具性というのは存在している。想像力を無限に広げる天才育成キットではないことをここで一度、確認しておきたい。

 

 玩具性についてもう少し噛み砕こう。テレビを見ることも玩具性を刺激する。

「このキャラはアホだからアホな行動する」という認識でテレビを見ると、そのとおりになってくれた。面白い。嬉しい。玩具性というのはそういうもの。「このキャラはヒーローだから正義な行いをする」と認識でヒーロー物を見ると、そのとおり動いてくれた。楽しい。嬉しい。と、こういう風に自分の思った通りにキャラが動いてくれることが玩具性を刺激する。

 売れている日本のyoutuberはそういうこどもの玩具性を刺激できるヒトが多い。自分では到底食える量ではないおかしを1000コ以上買った動画を上げるyoutuberがいるが、こどもの玩具性を刺激するには十分なものである。「すげぇ!」「全部食うの?」と、自分の家庭では到底できないことをしてくれるネット上のヒーローはスマホの向こう側に存在する。

 玩具性は自分が触って動かすおもちゃ以外にも、テレビ映像から自分の脳内で刺激される。また、その刺激を共有し合って、友だちとコミュニケーションを取ることができる。玩具性は一人だけで浸り続けるのではなく、誰かと交流できる共感性を持つものでもあるため、現在において必要な感性と言える。

 

 ところで玩具性は鍛えたらどうなるのだろうか? そこら辺は私も専門家ではないからわからないが、玩具性を適切に鍛えたら、様々な状況下において適切な行動を打ち出せる想像力と、話題の共感性を持つ人間へと育つと思う。けれども、その玩具性を間違えて鍛えられてしまったら、自分が王様で周りにいる人間をおもちゃと見立てる危険性もはらんでいる。

 例えば、玩具性の線引きができないで誰かとコミュニケーションを取ったらどうだろうか。自分の命令どおりに動いてくれる人間を大切にし、命令どおりに動いてくれない人間を人間ではないと思ってしまう。人間をおもちゃと見立ててコミュニケーションを取るのだから期待どおりに動いてくれないと腹が立つ。「なんでこれができないの?」「なんでこうやってくれないの?」と、おもちゃが自分を裏切っている感じがして、イライラが募り、壊したくなる。まあ、人間を壊すことはないと思うが、このヒトを下に見るように育つ可能性がある。玩具性の線引きは大切だと考えられる。 

 

 こうやって見ると玩具性というのは幼少期の頃から人間の性癖を育成する大変危険な代物なのかもしれない。玩具性の線引きを誰からも教えられず、自分でも気付かず育っていたらどうなるのだろうか。特に両親共働き時代において、親のいないこどもたちはスマホやゲームに釘付けになっていく。こどもの玩具性はとめどなく育成されるのは仕方がない。

 とまあ、不安を煽った所で、今日のブログはこのへんで。

 

 あ、そうだ。

 なんで、こんなことを書いたかというと、親が自分のスマホをこどもに渡すシーンを見かけたのがきっかけである。誰かがプレイしたゲーム動画を無料に見ていると、「ゲームを買う余裕がないのか。プレイしたら絶対楽しい」と胸の内につぶやいた。

 そのことをこどもを持っている友人に話すと、「いや、そうじゃない」と言われた。「じゃあ、なんで動画を見せているか」というと意外な言葉が来た。

 

「こどもは黙って動画を見てくれる」

 

誰かに誘われても上座に座るな!

 

 社会人マナーにおいて上座は口酸っぱくなるぐらい注意されるものであり、また、新入社員が上座をわかっていないと、ついついそこは上座だろうと? 口走ってしまうようなものである。それだけ大事なものであるかというと人よりけりであるが、私にとって、上座というのは意外とストレスが溜まる場所だというのが最近になってわかるようになった。

 え? 会社やホテルのカフェにあるソファでくつろげる最高の場所じゃないの?

 いやいや、最高じゃない。逆に最悪な場所である。どうして最悪だというと、誰かと会話する際、“逃げる”という行為ができなくなる場所だからだ。

 ここでいう”逃げる”は相手から与えられた選択に対して、ノーと言える立場でなくなることを言う。意外だと思うがノーと言うためには経験と胆力、すなわち会話力が必要である。それがなければ、ただただ感情で押し切らなければならない。仮に感情で押し切った場合、後から人間関係の構築に多大な影響与えてしまい、最悪の結果を迎えてしまう。これはよくない。ストレスだ。上座に座るというのはけっこうハードなものだ。

 こういうことを考えるようになったのは、カフェで読書をしているときに、何らかの勧誘活動を受けていた女性を見たからである。その女性はだいたい30歳前後か。その女性は次から次へと言葉を足していくセールスマンの話をいやいやながら聞いていた。断る状況を見えなくて目線が泳いでいた。しかも、その女性は最もカフェの出入口から遠い場所の上座に座っていた。

 ――ああ。これはやられるな。

 自分の立場を守りつつ、相手のプライドを傷つけないする日本人にとって、こういう場所を取られたらけっこうまずいものである。セールスの地政学が働いて、相手にノーと言えないマイナス補正を掛けることができるのだ。

 そういえば、私もジュエリーの勧誘を受けて、こういう状況に追い込まれたことがある。まあ、お金がなかったから1カラットたりとも買う気なんてなかったが、あのときもセールスの地政学が働いていたのだなと思う。壁際に追いこまれて目の前に二人、横に一人にするポジショニングをかまされた気もするが、それでもノーをつっぱしった。ただハッキリとノーと言えない雰囲気を作り出していたため、長時間沈黙していたことを覚えている。今になってわかったが、相手は本気にジュエリーを買わせようとしたのだと気づいた。考えてから買わす気はなかったのだ。

 こう考えてみると、上座というのは誰かをダマす場所なのかもしれない。セールスマンがお客を上座に座らせるだけで精神的に追い込むことができて、ノーと言わせない。作用が働く。これは怖い。

 もしかすると、日本人はノーと言えないと指摘されるが、ノーと言えないのは人間関係のこじれを怖れている以外に、今自分のいる場所に何らかの問題が生じている可能性がある。上下関係があるのならまだしも友人関係でノーと言えないのなら、逃げ場のない上座に座らされているのかもしれない、と、言ってみる。

 

コンビニの立地問題

 コンビニの店舗は2016年度でおよそ55000軒近くに膨れあがり、日本の人口を1億2000万人として数えると、コンビニ1軒あたり約2200人が通うという計算となる。勿論、これはただの計算であり、コンビニ一軒あたりどれだけの人数が通うのかは様々な要素が含まれる。値段、サービス、店舗の広さ、駐車場が完備か、などがあるが、やはりいつでも行きたくなるような利便性の高さこそが、コンビニに求められる条件と言える。

 となると、コンビニで一番求められる条件というのは“場所”と言えるはず。「なんかないかな」「ちょっとコーヒー飲みたいな」と、ぶらぶらと足を運んでしまう場所が、コンビニであるはずだ。そんなお客の目線に合わせるためにも、コンビニは大通りでわかりやすい所に建っているのが、基本だと思う。

 なのに、なのにだ! なぜそんな辺鄙(へんぴ)な所に、コンビニ建ってるの!?と、あ然となることが多々ある。まあ、病院や市役所の中にコンビニがあるのは色々と助かるし、もっと増やしてもらいたいところだ。しかし、コンビニは雨後のたけのこのごとく、にょきにょきと、予想できない場所に立地する傾向にある。

 あるときはファミレスの跡地に立地、カレー店の跡地に立地、あるときはコンビニの1つ飛ばしてそのお隣に立地するという、『これ、ホントにここに必要ですか?」と言いたくなるような状態となっているのが、これが現在のコンビニの立地問題である。居抜き物件だからゼロから建てるよりかはマシなのはわかるが、一階フロアでテナント募集という立て札があれば、すぐそこはコンビニとなる。ちゃんとこの周辺にいる住民を調査しているのか、不安になりそうだ。

 

 さて、こんなどうでもいいようなコンビニ事情についてブログで書いているのは近所でめでたく? 新たなコンビニができたからである。大通りでコンビニの男性店員(だいたい50近く)がビラを配っていたので、そのビラを受け取ると、車がギリギリ二台通るような入り組んだ場所に問題のコンビニができた。

 

 ……行く?

 

 不便過ぎる。とてもじゃないが不便過ぎる。何処にあるのかわからないのは致命傷。いくらサービスが良くても、わざわざそこまで足を運びますか? と、ビラを受け取ったときにそう思ってしまった。

 しかもだ。そのコンビニからおよそ250メートルに同じチェーン店のコンビニがある。駐車場が大きく、店も広い。店員の質もよく、メインストリートにある。まさに近くにあるととても嬉しくなる、ザ・コンビニなコンビニである。

 また、問題のコンビニから逆の方向にだいたい350メートルぐらいにも同チェーン店のコンビニがある。そこは大通りにはないが、大きな駐車場完備で中学校や団地に近い地元密着型のコンビニである。

 そんな場所に挟まれた小道に問題のコンビニがある。

 

 ……行きますか?

 

 コンビニの運営はとても苦しいのは恵方巻きのノルマからよくわかる。どんなせっせっと働いても爪に火を灯すぐらいの利益にしかならない。

 コンビニは場所こそが大事だというのに、問題のコンビニは大通りから外れた小道に沿った所にある。厳しいことを言うかもしれないがこんなところは目的を持たないと行くことはない。

 しかし、問題のコンビニは運良く病院の近くにある。そういう意味ではとても便利と言える。だが、車の往来の激しい道でご年配の方々が通うことができるのかという問題もある。いずれにせよ、もう少し適切な場所にコンビニが建てなかったのかと言いたくなる。

 

 脱サラしたヒトがコンビニ経営にチャレンジした気持ちはわかる。しかし、もう少し計算はできなかったのか。私はそういう疑問を感じる店は数年で閉店ガラガラとなるから怖い。価格やサービスが同一のコンビニチェーン店で強みとなるのは場所だ。

 

 最近、地政学の本が流行っているから、商売の地政学という本を誰かが書くといいかもしれないと言ってみる。絶対、売れると思う。

 

”詰め”と”諦め”

 

 いろんな場面で大切なものが色々とあるが、そのなかでもこれが大事! と、なかなか気づかれない代物というのが『詰め』だと思う。

 

 例えば、大学受験や資格試験である程度まで勉強をしたが、あと一歩というところで点数が取れないというのはおそらこの”詰め”が甘いのだと思う。公式や単語、専門用語は覚えているが、どこでどれを使えばいいのかというのはわかっていないのはまさしくこれ、詰めが甘い。試験の時間配分の使い方が予定よりオーバーしてしまうのもそれ。2、3分遅れただけでも致命的になることも少なくない。

 しかし、そんなの”詰め”の甘さに気づかず、自分は大丈夫と思ってしまうもの。そしてテストの結果が悪ければ、なんで取れなかったんだと肩を下ろす。それならまだいいが、自分には才能がない、向いていないのかも、と、”諦め”に走ってしまう。そうなると試験どころか勉強そのものを放り出してしまうサイクルへと陥ってしまう。”詰め”の甘さが”諦め”になるのは別におかしいことではない。

 

 それでは詰めの学習方法はどうすればいいのかだろうか? 一番手っ取り早いのは試験本番を想定した模試を受けることだと思う。模試を受けながら、自分の心のつぶやきを問題用紙の片隅にでもメモを取れば、詰めるべき穴が見えてくる。とはいえ、試験本番を想定しているのだからそんなヒマするぐらいなら1点2点を取った方がいいと脳みそはそっち好むはずだから難しいところだ。

 となると、次は”詰め”の学習段階をどの時点でするべきなのかという話となる。何かを学ぶときは予習→講義→復習→定着というのが基本(かな?)だと思うし、試験の前では、復習ノートの確認→問題集→間違えた所の確認→問題の復習というサイクルが好ましいところだが、ここまでやってもまだ詰めの段階に来ているとは言えない。ここまでの復習を2,3回程度ぐらいしかしていないからだ。

 復習を何十回すれば詰めることができるのか? 残念ながらそうだと思う。しかし、復習の時間を1回30分かけろというわけではなく、ノートをさらっと見て、「ああ、ここはこういうことだったんだな」と1,2秒間で脳内バタフライエフェクトが起こったような感覚を覚えればそれでいいと思う。そして、問題集もさらっと見て、「ああ、ここはこうやって解いたんだな」と脳内バタフライエフェクト2が起こったような感覚になればいいと思う。そうやれば、自然と学習内容については”詰め”ができていくと思う。

 

 しかし、ミヒャエル・エンデが危惧した時間を盗まれている現代人においてはノートを見る時間でさえも時間が惜しい。電車内でスマホをいじくるのは好きなクセに、血なまぐさく問題を解いたノートを見るのはなぜかイヤ。そりゃ、電車内でお目こぼしにも程がある汚らしいノートを見るなんて恥ずかしいし見せたくもない。

 電車内でゲームをしたり、化粧したり、コーラを飲みながらスナックをばっさばっさと食べている輩がいるのに、なぜかこういう真面目ぶったことに関してはうまくできない。ある意味、ここでも勉強をすることがが恥ずかしいという訳のわからない羞恥心が働いて、”詰め”を”諦め”ている。

 言い換えれば、そんな必死なことをしてもこんなところでしているなんて日頃から勉強不足じゃないの? と、いうあなたの人生のこれからがわかっていますよ、という陰口が聞こえているからか、ノートを見ない。

 

 閑話休題

 

 さて、ここで個人的に”詰め”の学習方法を1つ。

 

 一度目の学習が終わって問題集を解いて学習内容が定着した後で、もう一度軽めのノートを書いてみる。ただし、そのノートは間違えても重いものは絶対書かず、自分が学習した内容を思い出すことができる想起ノートを作る。すなわち、脳内バタフライエフェクト3完結編とも言える軽めのノートを作るわけだ。

 もうすでに仕上がった母艦ノートは完成しているのだから後は日頃から記憶を引き出す想起ノートがあれば1秒でも復習ができる。これでダメ押しに”詰め”ることができる。

 ただし、そのノートを書きすぎないこともまた1つ。かといって、問題一つ一つごとに1ページ使うのももったいない。個人的には「問題を書いておいて、横にちょこちょこと解答となるヒントを書いておく」のがおすすめ。解答はもう問題集やテキストにあるから大事なのはそのプロセスが脳内に存在しているかにある。最終的に詰める場所はノートでなく、脳にあるからだ。

 まあ、私の場合、学習の詰め方としては広い広い基本レベルの問題集を試験1週間前(大学受験なら2週間前、模試は全て終わらせていること!)にして、弱点をあぶり出すのがオススメ。この時の使う時間は想定時間の半分以下、またスタミナが続く限り全問解く。

 ここで問題なのは立ち止まること。時間を使う問題なら良いが、問題に立ち止まるということはその問題と解き方を知らないということだ。立ち止まったら遠慮なく解答を見る。そして次、と終わるまで続ける。

 もしあまりにも立ち止まるのなら、それはもう”詰め”の段階ではなく、まだ問題を解く段階、つまり、定着前の状態だ。高得点は望めないと覚悟を持って、その問題を覚えるつもりで覚える。

 問題を解き終えて、試験の前の日、その問題集をパラパラと読んで、バタフ……と、もういいだろう。とにかく、軽くてもいいから振りかえよう。

 

 後、本番試験用の”詰め”もある。計算ミスが多発するのなら他の問題に移って、落ち着いてから解く。見直しのために次の問題へ行くと言ったリカバリーポイントの設置。ここは速く解く、ここは時間が必要だと気づくショートイージー・ロングディフィカルト(即易難問)の特訓。1つの問題にこだわりすぎて時間を多く使う性格か。図は小さめで多く用意するか、それとも大きめにしとくかと問題ごとに考えておく、などなど。

 やはりこれらの詰めを知るのは模試を受けるか、問題解くときに誰かに添削してもらうと言ったコーチング(先生じゃなくてもその問題を解けるレベルの人間)を受けた方がいいかもしれない。ここで大切なのは自分が満足……とまで行かなくても良いが、とかく納得した解答を提示するということ。それが”詰め”の学習につながる、と、言ってみる。

 

 あ、そうそう。

 昨年の12月ぐらいか。私が地下鉄に乗っていると、塾帰りの小学六年生かな、そのコが私の隣に座ると、一目散で難関中高算数の問題集を開いて解き出した。それを見せびらかせいたのかどうか知らないが、ボクはガンバっているぞ、という姿を見た。

 そのとき、私は、ああこれはXを使わないで解くのか? とか思いしつつ、電車に降りた時「あ、これがこのコにとって電車が”詰め”の場所なんだな」と、なんとなく感じた。

 

 小学生が電車内で勉強を”詰め”ていた。大人は何かを”諦め”る前に、その何かの”詰め”について、もう少し考えてみるのもありなのかもしれない。

 

 ちなみに、これは事実です。

 

想定力のメリットとデメリット

 ツイッターのまとめ”togetterを見ていたらなんだか面白いものを見つけた。それは”ラノベを読んでも読解力は身につかない」について持論展開する人たち”の引用した文だった。

 

「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」の一説より、

 

『――読み手が文脈を作り上げるのです。そして、その文脈に合わせて部分を読み間違えたり、読み飛ばした部分をその文脈に会わせるかたちで想起したりするのです。』

 

……確かに。そう言えば、それで文脈を読み間違えて、文章や英文を間違えたことがあるな……。

 

 いずれこの本は読んでみるとして……、なぜ、こんな間違いをしてしまうのか。それは、すぐ文章の中身を読むために、自分自身がその文章の内容を想像する『想定力』が働いていると考えられる。

 

 私が言う『想定力』は、書き手があることを主張するために読者が予め持ち合わしている知識や経験を総動員して、その主張の内容を予め予想する力のことをさす。

 例えば、ちょっと古いが誰かが「今年のM-1グランプリ面白かったな」と話題を触れるとしよう、そのとき、自分は「あ、一位の銀シャリのことを話すのかな?」「相席スタートはヒトを選ぶよな」とか予め考えられる答えを用意しつつ、「何が面白かったの」と返答する。すると、相手は「勿論、一位のだよ」と答えると、すぐ自分は「あ、銀シャリね」と、話を合わせられる。

 また、ある小難しい文章も予めテーマがわかっていれば、すらすら読めることもできるし、ドラマやアニメの展開もこういう風に進むんじゃないの? と予想することもできる。これが想定力である。

 

 この想定力は日常生活において必要な力である。というより、長年の経験によって無意識に行動しているパブロフの犬よろしく、一種のルーチンワーク化している行動であるといえる。この力が働けば、何をすればいいのかわかっているため、頭がスポンジ状態でも勝手に身体が動くし、何をするのか予想ができる。

 逆に、あなたが店員でお店のカウンターの前で客の注文やクレーム以外に何をするだろうのか? 股間を押さえ付けながらやってきて苦しそうにトイレの場所も聞いてくる訪問者もいることはいるが、たいていは「ご注文を承ります」ぐらいで他にすることはないだろう。

 この想定力が皆の頭に働いているからこそ、無意識の中で常識が存在し、その常識の下で毎日を暮らしている。

 

 さて、想定力について話した所で、そのメリットについて話しておこう。

 

 私はこの想定力で用いて文章を読んでいることが多い。いわゆる速読をしている。想定力の利点は「読むのが速い」「内容の検討がつく」「書き手の主張で立ち止まれる」といったものがメリットと言えよう。

 「読むのが速い」「内容の検討がつく」というのはだいたいわかるかもしれないが、「筆者の主張で立ち止まれる」というのはなんだろうか?

 新書やニュースメディアのコラムなどは書き手の主張がわざと一般とは違う対立関係を立てて、読者を立ち止まらせる文章を書いていることがある。現代文の接続語で「しかし」「だが」とかあれば、重要な文でそこをまとめれば点もらえるよという高校の教師が指摘するように、たいてい、書き手もそうやって、読者立ち止まらせポイントを作っている。(まあ、そういう書き手もいないこともあるが)

 想定したどおりの文章じゃない? じゃあ、ここが大事な点? と、気付き、そこでじっくりと文を読み込む。わからなければ、流し読みしていた所に戻し読みしつつ、その文章の深い所を踏み込んでいく。どちらかという私はこういうタイプの読書法だと自負している。

 

 しかし、この想定力の使い所を間違えると痛い目を見ることがある。それは「書き手の主張とはまったく別のものになっている」。これがデメリットである。

 書き手の主張が別になってしまったポイントは2つある。1つは専門用語や作者だけが用いているキーワードを理解せずに読み込んで、別の解釈をしてしまったこと。知っている単語を拾い読みしているだけで、だいたい中身を理解した気になっていることは、英語を全然読めなかった高校生のときにあることだろう。それと同じように、自分自身の思い込みで相手の文章を勘違いする。たいていは痛い目を見ることなくそのまま本棚の中で眠ることだろう。ある意味それは間違いに気づかないまま読み切った幸せな読書かも知れないが、本の中身を理解したということではないと思う。

 2つは速読するのに夢中になって、文章の文を勝手に自分の頭で書き込んでいくこと。

 

「私がとんこつラーメンが・・・・のは、――――しつこさである」

 

と、読み飛ばしたとしよう。

 ・・・・は大好きな、――――は九州独特と言った言葉を想定して、次へと文章を読み進んでいく。

 

「それに比べて、しょうゆラーメンはなんともまあおいしいものか」

 

 あれ? なんかおかしいぞと読み戻すと、

 

「私がとんこつラーメンが好まないのは、その独特のしつこさである」

 

 というように、文を勝手に想定したことで文章がまったく別のものになってしまう。これは読み飛ばした自分自身が悪いため、書き手自体は悪くない。こういう人間の心理をミスリードを誘うミステリー作家もいるが、たいていの書き手は自分の言いたいこと、思ったことを伝えたいので、そんな意地悪するのはいない、と思う。

 

 と、想定力について話してきたが、この想定力の源となっているのは、幼い頃から自分の肌で感じた知識と経験である。この知識と経験が養っていないと、読書にブーストを掛けてくれないし、間違えた解釈をしてしまう。

 けれども、そんな養った想定力がなくても妄想を働かせて読むことができる。そういう妄想力を働かせた読み方は実に楽しい。脳がどこまでも際限なく伸びていく宇宙のヒモを妄想すれば、ポワンカレ予想の答えに辿りつく気もする。しかし残念ながら公式も理論も知らないから妄想は妄想に過ぎず、答えは笑っておしまい白紙<タブラ・ラサ>である。

 しかしながし、妄想を否定しているわけではない。こういうのができたらいいなと思うのは悪いことではないし、面白い。そういう妄想のスパイスを使い分けながら想定力を働かせば、いつもより楽しく本が読めたり、毎日が少し面白く見えるはずだ。ただ、ありあまる妄想力で筆者が真剣に書き上げた本と向き合うのは摩擦が生じる。となると、本を読めないのは読み手である自分が少しズレた視点で読んでいることにあるのかしれない。

 本を間違えて読むということは、新たな知識の扉を開けてくれる本をただ開けているだけに過ぎず、そこから流れ込む書き手の息吹を感じ取れない。しかし、その感じた書き手の息吹に、自身の想定力と絡めれば、知識だけでなく全く体験したことのない経験を手にすることにもなる。(ただただ、だぁーと文字を流し込み、ああ、読んだ読んだ、となることもあるが)

 

 ところで、この想定力はどうやって養うか。気の利いた書き手なら読書! 人生の経験! チャレンジと意識高いことをいうが、私はそうではないと思う。

 自分自身が「ああ、これは、自分が想定したものだな」と意識の使い分けばそれでいい。無理に背伸びしなくても自分の想定力とは違ったものと、出くわすことはよくあること。

 

 と、言ってみた。

 

 今年もありがとうございました。

 来年も気が向いたら書いてみます。

 

 ……読者の想定通りのモノを書けるヒトがなんとなく羨ましい。

 

怒るというセーフティーネット、怒らないという社会の破けた網

 

 私は二度、車に轢かれたことがある。一度目は自動車、二度目は自転車だ。どちらがヒドかったというと、自動車だと思うが、残念ながらヒドかったのは自転車の方だ。

 

 一度目は高校生の頃、自転車から片足を地面につけて信号機を待っていたら、その足のふとももがタクシーの側面にぶつかった。運が悪かったのか良かったのかわからないが、遅速で当たったからケガになることはなかった。狭い路地へと曲がろうとして運転技術がなかったから当たったのだろう。

 それに、路地に近すぎた自分自身にも問題があったのだろう。だから、あまり怒ることはなく、去っていくタクシーの後ろ姿を見送っていた。

 

 二度目は一年前、買い物から帰っている時に後ろから自転車にぶつかった。けっこうスピードが出ていたのだろう。ふとももがガンと当って赤く腫れた。

 自転車のタイヤに当たったのはワケがある。目の前にこどもやおじいさんがいて、少し急ごうと横切ろうとした所で、そこで自転車にぶつかった。これは自分のミスだと思った。

 しかし、それは違っていた。その自転車に乗っていた――少年ぐらいの男がイヤホンをつけながらスマホで電話しながら運転していた。さすがにキレた。目の前のこどもやおじいさんにぶつかったらどうするのか!? これは本気で怒るべきだと思い、近くの派出所まで行こうと言って、一緒に来てもらうことにした。

 相手は逃げないようにと自転車のハンドルを触れながら派出所まで向かったのだが、男は自転車から降りた。

 自転車は私の方に倒れかかる。相手は自転車を運べと言った。そして、触るな、とも言ってきた。

 何言っているんだ? こいつ。

 目の前の男の無神経さに殴りたい。そんな衝動が湧き上がった。 

 だから、私はこういった。

「もういい」

 男は安心したカオをし、自転車に乗って去っていた。

 

 もしここで私は怒っていたらどうなっていただろうか。殴っていたのか、それとも、理路整然と責めたてていたのか。しかし、ここは少し横に置いてといて、怒られるはずの男の方を見てみよう。

 ここで男が怒られていたら「これはいけないことだったんだな」と反省するか、「なんでこいつが怒っているんだ?」と相手をバカにしたりと色々と思うはずだ。そこから「もうスマホ運転しない」と行動するか、「スマホ運転するけど、少しは周りをよく見よう」と改めるか、という反省する可能性があったはずだ。

 しかし、私は「自転車に乗りながらスマホ運転していいよ」という怒らない選択肢を取った。私はそう思ってもいないが、怒らなかったから結果的にそうなった。

 男は安心したはずだ。「オレは運がいい。こういう時は、相手を怒らせる行動を取って、逃げればいい」と知った。

 運がいいと思ったはずだ。ラッキーと安堵したはずだ。

 

 けれども、私はそうじゃない。私が取った”怒らない”というのは「もう反省する見込みがない」と彼を見捨てたからだ。

 

 怒らないというのはとても理性的な方法だと思う。「これで怒るのは大人げない」と自制する。「大声で怒ったら恥ずかしい」と我慢する。「相手に何言ってもムダだ」と理解する。「こいつを怒ったらオレはどうなる?」と制止する。「これは自分に害がないから別にいい」と無視する。いずれにしろ、怒らないという行動は自分の利を中心とした頭を使ったものだ。

 一方、怒るというのは感情的だ。痛いから怒る。ムカつくから怒る。腹が立つから怒る。と、自分に害が及ぶから怒る。

 中には、相手に傷ついたらどうするんだ。ヒトサマに迷惑かけたらどうするんだ。もっとしっかりしろ! と、理性さを怒りにねじ込ませてそれをぶつけることもある。

 言わば、怒りというのは自分の気持ちを相手に理解して欲しいから大きなメッセージを渡すわけだ。

 

 二度目の自転車での事故で私が怒らなかったのはそれである。私はメッセージを与えることをやめてしまったのだ。「こういうタイプは何言ってもダメだ。きっと大きな事故を起こす」と未来を見てしまったわけだ。

 ここでできた大人ならきちんと「キミは自転車で人を轢いたのだから、警察をはさんで話をしようか」と言えたはずだったのだが、残念ながら私はできなかった。相手を小馬鹿にし続ける相手の態度を見続ければ、いずれ暴力をふるうことがわかっていた。「怒ったら社会的に損する」と戒めたのだ。

 きっとみんなが全面に怒らなくなったらのはこの「社会的に損するだろう」という損得勘定なんだろう。私は彼をうまく怒ればセーフティーネットの役割をはたすはずだったが、自分の感情を優先して怒らなかった。

 この怒らないという行動によって彼を社会の破けた網を通らせる結果をもたらしてしまった。

 

 この怒らない“社会の破けた網”が知らない間に増えたと私は思う。現に私がそうだった。

 そして社会の破れた網を知った者はそれをもう一度くくろうと舌なめずりする。「こいつは絶対文句を言わないから好きにしてやろう」とヒトを値踏みする者もいれば、「オレは無敵! 今、運いいから!」と自分の運を信じる者もいる。

 痴漢や万引きが常習化するのはこの社会の破れた網をくくった時の旨味、達成感を知ってしまったからなんだろう。そういう達成感は別のものにすればいいものを、自分にしか見えない、自分だけが通れた火の輪くぐりを通り抜け続け、脳内に草を生やし続ける。お花畑なんだろう、その脳は。

 社会の破けた網によってヒトは増長する。そして、知らない間に犯罪をするか、それと同じぐらいの大きなしくじりをしてしまう。冗談に聞こえるかもしれないが、周りが怒らないというのは、社会のセーフティーネットが働いていないということである。

 子供の頃、親から怒られなかったと自慢するコや、仕事場では一度も怒られたことがないと胸を張るサラリーマンはとてもとても立派だと思う。だがそれは、このコは何言っても話を聞かないと残念ながらネグレクトされているか、大きな仕事を任されていないという無能というレッテルを張られているかと、危険信号が点滅している可能性もある。まあ、あくまで可能性の話。

 あと、周りから怒られまくっているんだと、大変自己評価の低い人間もいる。それはセーフティーネットをグルグルと巻き付けられているからと安心しよう。大切にされている。うん。そういうことにしよう。

 

 さて、怒る怒らないという話をした延々と書いていたが、話をまとめると、怒る場面でうまく怒ることができなかったという話で、その後、怒られるはずの相手が、調子に乗るという話で、そして、その調子に乗ったら相手は大きな問題を起こすという話の流れで、ただ単にブログを書いてみた。

 ちょっと希望的観測が入っていない? と思うヒトもいるかもしれないが、私は一度ヤバ過ぎるスリルをうまくすり抜けることができたヤツは、もう一度そういうスリルを楽しむか、またはそのスリルのリスクは取らないと考える人間である。つまり、一度、運任せをしてその運が良かったら、リスク回避なんて考えず、またそれに手を出すのが人間であると思っている。

 怒られるときに怒られないというのは怒られる側にしたら運が良かったと思う。特に悪いことをしたとき、こどもにとってそれは幸運と言える。

 

 しかし、それは幸運だろうか? 大人になった時に不運に転じるのではないか?

 

 怒るべきときに怒ることができなかったそんな私。私に怒られなかった彼はもっと大きな問題に直面した時、どうなるのだろうか?

 そしてそいつが何かしくじってくれたらと悪魔めいた気持ちでいる自分もいる。自転車にぶつかったとき、けっこう痛かった! からだ、と言ってみる。

 

 ……夏休み最期の日だから何か書いてみようと思った所、高校生は一週間前から学校を始めているみたい。読書感想文の話や、宿題の話でもと思ったけど、あまり意味がないと思ったので、こういうことを書いてみました、と。