羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

“ながら行為”があなたを苦しめる

 

 今日は頭から本題に入ります。

 

 ながら行為とは、本題以外の何かをしながら本題の作業をすることである。例えば、スマホを見ながら街中を歩くことがそれに当たる。スマホで情報を得ながら目的地まで歩くと、なんだか一石二鳥だと思うものだ。しかし、スマホを覗きながら歩く行為は目の視野が狭まり、足下しか見ていない。そのため、スマホを見ながら歩くそのヒトはインディジョーンズに出てくる"大きな大岩”のようなものである。

 ここまではまだいい。いや、周囲の人間にとってよくはないが、ここでは周りの人間は度外視することにする。

 ながら行為があなたを苦しめる理由は"ながら”行為が優先順位の上位に立つことがあるからである。夜、勉強中、音楽を変えようスマホを見ているとLINEの通知が来て、既読を踏んでしまい、急いで返信してしまう。それから相手は次々からメッセージやスタンプを送ってくる。それがなんだか楽しくなって返信返信していくうちに、『あ、もうこんな時間』となり、ムダな時間を過ごすことになる。これが本題が”ながら行為”と入れ替わった瞬間である。

 “ながら行為”の怖いのは知らない間に優先順位のトップに立ち、時間を食うことにある。しかも“ながら行為”は簡単にスイッチが入る行為であるため、すぐに手を伸ばしてしまいがちである。

 それではなぜあなたは“ながら行為”に走ってしまうのか。

 ――息抜きのために“ながら行為”をする。

 ――そもそも本題そのものがつまらないから“ながら行為”する。

 ――“ながら行為”が好き。

 などなど理由はさまざま。人間、壁にすき間があれば、手を入れたくなるものだ。だからこそ、作業の空きのスペースがあったら“ながら行為”をしたくなるのも納得できる。いけないと思っていても、「退屈は苦痛。だから何かをしながらやれば得するのではない」と思って、“ながら行為”をする。そして、知らない間にそれにハマるというのは様式美である。

 “ながら行為”は拡散的欲張りである。あれもやりたいこれもやりたいと欲望を拡散させて、実際にそれを行動化させる。あれもこれも意識を拡散されてば、集中力なんか失うことなんて知っているのに、なぜか意識を拡散させたがる。

 人間の脳はダブルタスクなんてできないというライフハック記事は至るところにあるのに、ついついそれをやってしまう。まるでダイエット中にお菓子を食べてしまう意志の弱いコみたいなことをやっている。拡散的欲張りによって、“ながら行為”が優先順位のトップに入れ替わって、自分自身を苦しませるのに。

 それでは“ながら行為”はどうすれば止められるのか? スマホの電源を切れば良いのか? いや、それは違う。スマホの電源を切った所で、マンガを読んだり、ゲームをしたり、テレビを見たりするのは目に見えている。退屈が猛牛のごとくうごめき、拡散的に欲張り出す。これが無意識レベルで働くのだからたちがわるい。意識的に止めてもらうには、家族や友だちに止めてもらうか、もしくはコーチングしてもらう必要がある。(まあ、コーチングレベルまで来たらある意味、依存症レベルだと思うが)

 だが、この“ながら行為”を止める秘策はある。それは作業場を変えてみることである。

 自宅で誘惑が多いからカフェや自習室で勉強するというヒトがいる。誘惑との距離を持つことによって、拡散的欲張りを遠ざけている。また、自分をその勉強する環境の中に入れることで、その環境の一つとなり、退屈を殺している。“ながら行為”を引き起こす拡散的欲張りはこのように対処することができるのである。

 とはいえ、作業そのものは退屈であれば“ながら行為”をしたいものだ。

 そこで“ながら行為”をしたくなったら、“ながら行為”そのものの優先順を落としてみるのが一つの手だと思う。スマホで音楽を聞いていたら出ている音を下げたり、友人とLINEしていたら10分おきにメッセージを送ると約束したりと、自分の中にある拡散的欲張りを発散させつつ、優先順位を落としす。“ながら行為”を触発させているのは退屈と得したい気持ちなのだから、それを治めれば拡散的欲張りはなくなるはずだと、言ってみる。

 それでも“ながら行為”が止まらないのなら近くの心療内科へと行った方がいいかもしれません。

 

復習や反復練習ほどイヤな言葉はない

 

 復習は嫌いだ。まして反復練習というのは嫌いだ。

 まったく同じ内容のことをやるのだから意味ないと思う。しかも、何度も同じ練習をさせられるのだから、上手い人から遅れる感じがする。

 ……あのヒトはもっと良い練習をしているのだからうまい。

 ……あのヒトはもっといい人から良いことを教えてもらっているのだからできる。

 そんなことを思い込んでしまう。そしてその苛立ちからいつしか復習をすることをやめて、ホントの置いてけぼりになる。

 しかしながら、反復練習ほど技術が身につく方法はない。よくある新書やライフハック記事からは『反復練習は絶大』と言う。記憶が定着する。スピードがつく。理解ができるなどなど、効果は実証されている。

 わかっている。わかっているのだ。

 それで力がつくのはわかっていると頭ではわかっている。

 ――ただ、復練というのがスゴくメンドクサイ。生理的レベルでやりたくないし、本能的レベルでキライなのだ。

 新しいものを求めたがる現代人にとって同じことをするのは大きな不満である。もっと別の新しいことをやって新鮮な体験をしたいのだ。

 そもそも復習という言葉自体が嫌いだ。

 また習う、おなじことを、また習う。実にメンドクサイ。

 言うまでもなく反復練習という言葉自体も嫌いだ。

 反復は返って再びするという意味。練習は練り習うという意味。

 すなわち、返って再び練り習う。

 ちょっと待って、練習は練り習うのだから誰かにコーチングしてもらう必要があるだろう? それなのに、誰かに同じことをもう一度習うなんてイヤすごくメンドクサい。基本、練習は独学であるため、反復練習も独学の延長上にあるが。

 それだけではない。授業で1時間受けたとする。復習なら1時間も掛けないのかといけないのか? えッ!? 大切な青春時代に1時間も割けられますか!? 復習が嫌われるのはどれだけ時間をかけていいのかわからないことにあるはずだ。もしかすると、1時間は愚か、2時間以上も時間をかける可能性もある。ボクはもう嫌だ、と、噂の快男児も言いたくなるのだろう。

 

 その上、反復練習という単語が長い上に言いにくい。「はんぷくれんしゅう」で9文字。途中の「ぷ」って発音で山を感じ、また「しゅう」でもう一回山に登る気がして嫌気がさす。反復練習という言葉がイヤになるのは意味以外にも発音にも問題がある。

 そしてこの言葉が勉強嫌い君に拍車をかける。

 ――これを『復習』しろよ。

 ――これは『反復練習』しとけよ。

 ヤだ。何度も同じことをするのは。もうわかっているのだからこの範囲は! と言って、テストで悪い点を取るのがオチである。

 

 実に忌々しい言葉だ。復習め。反復練習め。オマエには日本の学生達に対して数えられないほどの余罪があるはずだ。復習をしなさい、反復練習しなさい。軽々しく使わないでくれ。メンドクサさ100%なんだから。

 私はこの言葉の呪縛を解き放つ必要があるのではないかと思っている。復習、反復練習をもっと軽い言葉にすべきだ。

 もし、私が復習や反復練習に別の名前を与えるとしたら――

 

 ――リピる

 

 これでいい。シンプルでいい。言いやすい。使いやすい。

 できないところだけをリピる。記憶の精度を上げるためにリピる。実にいい言葉だ。

 

 どうも復習というのは、授業中、先生の言った言葉そのものを思い出して全範囲を網羅的にやらなきゃいけないのではないかという重さがあるように感じる。勿論、そんなことはないのだから先生が復習と言うと、オレの言ったことをすべて覚えとけよ、という感じがして実に苦しい。

 本来、復習というのは講義後や問題を解いた後に、自分ができない問題を再確認し、出てきた語句や数式を覚えるチャンスなのであるがどうもそれができない。先生が言う言葉だけを覚えとけばいいと軽んじてしまい、テキストや問題全てを読み込むことをほったらかしにしてしまう。おそらく私は復習の才能がないのだと思う。

 復習は授業や講座のもう一度繰り返しではなく、学習能力の精度向上なんだと思えば、少しはやる気が出る。だから授業の内容をすべて思い出すような感じがする『復習

』『反復練習』という言葉ではなく、自分ができない所を補強する意味で『リピる』という言葉を使うようにしようと思う。

 

 ……今日のブログはホントにどうでもいい話だったと少し反省しています。

 

サヨナラ英語からのりスタート本

 

 ※ 本文は下にあります。

 

 小学校から英語が導入され、ローマ字の読み方はどう読めばいいのかと騒がれているが、いつから英語を学んでも英語がまったくできないのが現状である。私自身もこどもの頃、親に英会話教室に行かされたものも、教師が言った単語をオウム返しにするだけで学ぶことはなかった。

 まあ、英語ができるためには日本語文法の壁を壊し、英語の発音には有声音以外に無声音があることを知らないといけない。それに加えて、英語を使う言語圏の文化性や宗教観を意識する必要もあるため、英語がハードルの高いものへとなってくる。

 これがこどもの頃からやるのだからさあ大変。言葉の組み立て方が全く違う言語を同時平行でやっていくのだから頭が困惑し、『日本人なんだから英語はできなくていいじゃん』思考になる。サヨナラ英語になるのも仕方ない。 

 いや、それだけならまだいい。英語教師が英語を教えるに値しないレベルに達していないとニュースになっている。しかも、生徒の英語ができないのは教師ではなく生徒のせいになるのだから、こどもの英語ぎらいは拍車にかかる。

 私が高校時代の頃、SV、SVC、SVO、SVOO、SVOCをしっかりと教えてくれた英語教師はいませんでした! と、胸を張って言える。おかげさまでその当時は、英語がまったくできない君になりました。ちくしょー。

 しかし、独学で英語学習をやり直し、英字ニュースが読めるぐらいのレベルにはなった。とはいえ、リスニングや英会話、しっかりとした発音などなど、まだまだやらないといけない所はある。

 

 ――課題が多くなるとどうしても手づかずになってくる。

 

 こうなるとサヨナラ英語をして心をラクにしたい。

 一度ラクを知るとどうしても習慣化としたくなる。こんな心へと傾く中、本屋に寄ってみたら良書と出会ったわけである。

  

□ サヨナラ英語からのリスタート本

  英語は“速く”間違えなさい

 

英語は

英語は"速く"間違えなさい

 

 この本は良書です。

 英語学習書は『ここが変だよ日本人』のようなクリティカル(批判的)なポイントを洗いざらいして、外国人はこうするんだよ、という本があるが、この本はそういった所がない。

 “恥はチャンス”と前向きになれる言葉が多数並んでいて、英語にある苦手意識を感じなくて楽に読める。しかも、中学生でも読める平易な文章であるため、スラスラと何度でも読める。

 

 ・ 100万、間違えればそれだけ英語が習得できる、

 ・ 5分間でできる勉強法、

 ・ 英語のメンタルケア、

 

 などなど、英語の学習書以外にもコーチング本としても役に立つ。もし、文法や長文でイヤになっている中でこれを読み返せば、失ったやる気が取り戻せる、いわば消費しないドリンク剤的な本として使える。本棚で手に取れる位置に置いときたいそんな一冊だ。

 

 ただ、受験や資格を取るための英語学習本ではない。センターで9割取る、TOEICで満点取るといった英語戦略学習本ではないということだ。受験で良い点を取ればそれでいい、と考えるのであれば、他の本を選んだ方が良いだろう。

 

 それと、この本はタイトルと中身が少しズレている。

 この本の中には「英語は一朝一夕でできるものではない」と読める所がある。あれ? タイトルと違わなくないと思うがそれは違う。『英語をすぐできるようになるには”速く“間違える』ということではなく『英語をしっかり長く付き合っていくためには”速く”間違えて正確な英語を身につける』という意味である。

 なので、英語を短く学習したいインスタント英語を望むヒトは、この本はオススメできない。英語を長く勉強するためのガイドブックを探しているのであれば、速く手に取りなさい、と、言ってみる。

 

 英語に対して苦手意識を持っているヒトも、もう一度英語をやり直したいというヒトも、本気で英語からサヨナラしたいヒトも、この本を読んでみるといいと思う。この本が良書ならそれでいいし、この本はダメだと別の本を手に取ってみる。

 

 “速く”間違えるというのは『良いこと』を見つけるキッカケになる。

 

 と、英語学習書以外で良いことを学べた気がした。

 

英語は

英語は"速く"間違えなさい

 

 

――血反吐の『自己愛』マラソンで自己を肯定する。

 

 一週間前、なんとなく図書館で手にした一冊の本がある。 

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

 

  タイトル通り『自己愛』について書いてる本である。感想についてはあまり話したくない。感想としてはなんというか“距離が近すぎる”。STAP細胞事件や西鉄バスジャック事件などなど世間を驚かした事件を『自己愛』をテーマに切り込んでいるのだが、断定的であり、それ、きちんと調べたの? と、言いたくなるところもある。アマゾンでの評判も描き下ろしだと言うのに芳しくなく、作者のクセが出てしまった一冊である。

 仮に、これをビブリオバトルでビブッてください(この本をみんなに読ませてください)と言われても、ビブりポイント(この本を読ませたいポイント)が思いつかない。「『自己愛』は危険です! 『自己愛』には気をつけましょう!」としか言えず、みんなをビブビブとビブらせることができないのである。

 本の内容についてあまり誉めていないように思われるが、意外といいことは書いてある。でも、作者と題材との距離が近すぎて、まるでそこにいるかのようにレポを書いてるんじゃないの? と、思ってしまい、ちょっとイライラする。そういう意味では危険な本とも言えるため、悪評高いのも納得である。そんな偏見を外した上でこの本を読めば、作者の言いたい『自己愛』についてわかるかもしれない。

 

 と、本の感想はこれぐらいにして。

 

 今回、『自己愛』について調べていたのは、最近見かけるニュースから『自己愛』に関する事件が多いと感じたからである。

 ここで『自己愛』というのは自分を賛美すること。つまり、「自分はまっとうなことをしているから何も非難されない」と、自分を正当化することだと、規定しておこう。

 自己の後に続く言葉と言えば、自己アピール、自己演出、自己評価、自己満足、自己中心的などなど、今の日本語、自己+単語で様々な言葉ができあがる。これだけ“自己”という言葉にこだわりだしたのは、やはり“自己責任”という言葉が現代の日本人の胸に突き刺さったからだと思う。

 まあ、自己責任論に関してとやかく言った所で『自分のやったことは自分のケツで拭け!』というのがオチなので、それについては何も言わない。ただ、それまでは『ジコチュー』と会話の中で軽くいじられる程度でしかなかった“自己”が、現実問題に関わる『自己責任』へと重くのしかかるものになってしまった。重たくなった“自己”を克服するために、ひとびとはビルディング、自己能力を高めるようになった。

 今の日本の社会が“自己”を形成し、それを売り込む地盤になっている。うまく自己を売れればそれでいいのだが、残念ながらそれをすべて買ってくれるヒトはいないのが現状である。

 それに加えて、うまく“自己”を形成できない問題が出てくる。経済的問題、家庭的問題、教育的問題、就活的問題などなど、現在の人間はどうしても“自己”を盛りがちだ。

 そして、その盛った“自己”がズレてしまい、それが虚飾へと落ちる。誰かにそれがウソだと指摘されたとき、「すいませんウソです」と認めればいいのだが、「いえ、ホントです」といつまでもウソを認めない。それを自分が傷つかないためにウソをついている自己愛まみれの人間だと指摘されるわけだ。

 ただのウソならかわいらしいが、そのウソには生活がかかっているのだからタチがわるい。けれど、今の社会土壌では“自己を盛る”のが普通なのである。しかし、あまりにも“自己”を盛りすぎて地盤沈下を起こしているのも珍しくない。

 自己を盛ることがコントロールできず、それがウソだと指摘される。それが世間で言う「あのヒトは『自己愛』が強いから」という批判につながっていると見ていいだろう。

『自己愛』が作られるのは、そのヒト自身が自分を傷つけないためにウソをつくのはなく、周囲の環境のプレッシャーと対抗するために作り上げてきた“自己”をうまくコントロールできず、盛った“自己”がずれ落ちて、醜い部分がさらけ出してしまい、最終的にそれが表面化した“自己”だと考えられる。一生懸命ガンバって作り上げたビルディングが崩れたのだ。

 表面化した“自己”が醜いものと思えるのは、その人間の実力不足と喪失感を目にしたからである。ところが、当事者はまったく気づかない。それもそのはず、盛った“自己”はトカゲのしっぽのようなものであり、切り落とすことができる。しかも、トカゲのしっぽと違って神経がつながっていないからそうそう痛みを感じない。けれど、見ている側は違う。盛った“自己”もそのヒトだと見ているのだ。

 

 社会でうまく生活するために“自己”を作りあげなければならない。ただ、“自己”を作るには何かと盛らないといけない。それがウソなのか、自分の実力で勝ち取ったものなのかは、そのヒト次第。ただ、あれもこれも一人の人間にやってもらいたいとお願いする社会と対抗するためには、それなりの”自己”を持たなければならない。

 SNSを駆使して自己演出。資格学歴で自己アピール。

 誰もが納得させる“自己”を見せることで、自分が存在できる。けれど、その“自己”を手にするには何かと時間もかかるしお金もかかる。しんどい。つかれる。おわりがみえない。

 ――血反吐の『自己愛』マラソンで自己を肯定する。

 と、そんな視点で社会を切り込んでみたら絶対鬱になるのでやめましょう。責任は持ちません。

 

 自己愛について考えたら、自己愛モンスターになってしまった! というオチでおわりにしてください。はい。

 

 

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

 

 

 なお、この本はどうやってもビブレませんのであしからず。

 

 

勤労の神様がいないワケ

 そういえば、勤労の神様って誰かいるかなと思いながら、ウィキを見てみたら仕事の神様大黒天はいるが、勤労の神様と呼べる神様は何処にもいなかった。あれ? どんなものにでも精霊信仰をしたがる日本人が勤労の神様はいないのか? と頭を抱える事態となった。これは一大事と、世界各国の神話を探す中で、「あ、そうか、勤労の神様はいないのは当たり前か」と改めた。

 

 なぜ、勤労の神様がいないと気づいたのかは、勤労は“自力”でできるものであり、“他力”のものではない。噛み砕けば、勤労というは自分の意志や選択の制御で可能なものであり、天候や恵みを呼び寄せる願いや信仰のようなものではない。

 お客様は神様ですとよく言われるのも“他力”という側面から見れば信仰する対象である。商売繁盛を祈願するのも、自分の力ではどうにもならないから神社にお参りするわけである。交通安全、子孫繁栄、健康第一などなど、自分の一人の力ではどうにもならないことを祈願する“他力”が求める信仰心はここから来ていると考えてもいい。

 他力というのは浄土真宗的考え方ではあるが、こう考えれば、勤労は“自力”だと見ることができる。勤労は自分の力でコントロールできる“自力”のものであり、誰かに依存する類のものではない。勤労の神様なんて都合のいい存在はいないのは、そういうわけだ。

 私が勤労の神様がいると思ったのは、自分自身の力不足を感じているからであり、自信のなさの現れでもあると自己分析できる。……ちょっと泣きたい。

 

 しかしながら、ここで一つ疑問に思うことがある。それは学問の神様は存在することにある。

 学問って、結局は自分が勉強しないと力がつかない“自力”のものではないかと思うものであるが、よく考えれば“他力”だと納得できる。というか、書いている間に納得した。

 学問の神様と言えば、言わずと知れた菅原道真公であり、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮などに祀られている。平安時代以降から学問の神様として存在し、現在も全国の受験生が彼の下へとやってきている。確かに、学問も誰かから正しく教えてもらう“他力”のものであり、それが人生の基盤となり、自分の力となる。

 学問というのは“自力”ではどうにかならないものであり、誰かの力、つまり“他力”が必要なのである。適切な“他力”のベースがあるから学業が“自力”で伸びるわけである。

 

 となると、やはり勤労の神様は必要ではないかという話へとなる。

 上司がきちんとした指導があるから部下たちは業務をこなせる。業績が伸ばせるのは適切な“他力”があり、“自力”で働くフィールドが存在する。しかし、その適切な指導が失えば仕事はうまくいかず、サービス残業、有給は取れないなどなど、個人に重い負担がかかる。これは“自力”でできる範疇であろうか? 

 行政の頑張りで数々の法律ができあがってきたが、それでもまだ改善はされていない。「これは間違えている」「部下の負担が大きい」と会社に訴えれば強い圧力が掛けられ、最終的には退職に追い込まれる。もはや自力ではどうにもならなくなった。

 しかしながら、法人格という側面から見たら従業員一人一人の行動はすべて会社の”自力“と見ることができる。だから、勤労は会社の“自力”でできると批判できる。だが、それは論理スリカエに等しい。法人格で神に祈りを捧げることもあるが、ここはきちんと個人の“自力”で見るべきなのである。

 

 勤労は“他力”が必要とされる時代へとなった。勤労の神様が存在すれば、企業はその神を恐れ、サービス残業や労働人災が少しは減ると思う。

 でも、それは結局何も解決しない、合理的ではないと言われるかもしれないが、人間、追い込まれたら神様をすがりたくなるものだ。受験でも健康でも恋愛でもありとあらえるものに他力を求めるのは現在でも同じ。だから、勤労の神様ぐらいいてもいいのではないか、と、言ってみる。

 

 で、勤労の神様は誰になるのだろうか? 勤労の神様って、逆に24時間365日、年がら年中働きそうだからな。

 ……やっぱ、いない方がいいかもしれない。

  

玩具性の線引き

 

 現在のおもちゃというのはこどもの想像性を広げる知的教育面としての有効面ばかり取りざたされている。これで遊べばこどもの力がつく! と何処かの自己啓発書みたいな感じを受ける。

 しかしながら、こどもはそういうおもちゃを説明書通り使うかというとそうではない。分解したり、床にたたきつけたりと、オリジナルの遊び方で満足するものである。なんでこういう風に遊ばないの! と、親は高望みをしたがるが、他の遊び方もあるのではないかと“模索するこどもの想像性”というのはそこにあるのだと私は言いたい。

 

 と、よくある新書的な書き出しで始めたが、今日は玩具性について話したいと思う。というのも、玩具性について書いてある本を探しても何処にもなかったというのが本音である。つまり、自分が今、思ったことを、確認するために、このブログで書こうとしているわけである。

 

 玩具性は、おもちゃ屋で売られている”こどものおもちゃ”というくくりではなく、自分の行動によって自分の期待通りに動いてくれるものだとしたい。

 

 こどもはおもちゃを見つけると、それに目を奪われ、そして触れたくなる。止まっているおもちゃであれば、自分からそれを動かそうと手に持ち、ブンブンとそのおもちゃを動かす。自分でそれを動かしているのだと認知し、キャキャキャと喜ぶ。

 ところがテレビアニメで出てくるヒーローものを見た場合、それが変わってくる。ヒーローが使うひっさつわざを真似るカタチで遊び始める。「ライダーキック」「ライダーパンチ」「プリキュアの美しき魂が邪悪な心を打ち砕くッ!」と、ヒーローの技をなぞらえることを楽しみ出すようになる。このおもちゃはこうやって遊ぶんだとこどもが知るはずのないおもちゃ制作会社から提示した正しい解答を出すようになる。無限にあるはずの想像力が一つに収束された瞬間だ。

 では、玩具性が失われたというと失われてはいない。確かに、想像力を失った点では玩具性はなくなった。けれど、おもちゃが自分の期待通りに動いてくれる点では玩具性というのは存在している。想像力を無限に広げる天才育成キットではないことをここで一度、確認しておきたい。

 

 玩具性についてもう少し噛み砕こう。テレビを見ることも玩具性を刺激する。

「このキャラはアホだからアホな行動する」という認識でテレビを見ると、そのとおりになってくれた。面白い。嬉しい。玩具性というのはそういうもの。「このキャラはヒーローだから正義な行いをする」と認識でヒーロー物を見ると、そのとおり動いてくれた。楽しい。嬉しい。と、こういう風に自分の思った通りにキャラが動いてくれることが玩具性を刺激する。

 売れている日本のyoutuberはそういうこどもの玩具性を刺激できるヒトが多い。自分では到底食える量ではないおかしを1000コ以上買った動画を上げるyoutuberがいるが、こどもの玩具性を刺激するには十分なものである。「すげぇ!」「全部食うの?」と、自分の家庭では到底できないことをしてくれるネット上のヒーローはスマホの向こう側に存在する。

 玩具性は自分が触って動かすおもちゃ以外にも、テレビ映像から自分の脳内で刺激される。また、その刺激を共有し合って、友だちとコミュニケーションを取ることができる。玩具性は一人だけで浸り続けるのではなく、誰かと交流できる共感性を持つものでもあるため、現在において必要な感性と言える。

 

 ところで玩具性は鍛えたらどうなるのだろうか? そこら辺は私も専門家ではないからわからないが、玩具性を適切に鍛えたら、様々な状況下において適切な行動を打ち出せる想像力と、話題の共感性を持つ人間へと育つと思う。けれども、その玩具性を間違えて鍛えられてしまったら、自分が王様で周りにいる人間をおもちゃと見立てる危険性もはらんでいる。

 例えば、玩具性の線引きができないで誰かとコミュニケーションを取ったらどうだろうか。自分の命令どおりに動いてくれる人間を大切にし、命令どおりに動いてくれない人間を人間ではないと思ってしまう。人間をおもちゃと見立ててコミュニケーションを取るのだから期待どおりに動いてくれないと腹が立つ。「なんでこれができないの?」「なんでこうやってくれないの?」と、おもちゃが自分を裏切っている感じがして、イライラが募り、壊したくなる。まあ、人間を壊すことはないと思うが、このヒトを下に見るように育つ可能性がある。玩具性の線引きは大切だと考えられる。 

 

 こうやって見ると玩具性というのは幼少期の頃から人間の性癖を育成する大変危険な代物なのかもしれない。玩具性の線引きを誰からも教えられず、自分でも気付かず育っていたらどうなるのだろうか。特に両親共働き時代において、親のいないこどもたちはスマホやゲームに釘付けになっていく。こどもの玩具性はとめどなく育成されるのは仕方がない。

 とまあ、不安を煽った所で、今日のブログはこのへんで。

 

 あ、そうだ。

 なんで、こんなことを書いたかというと、親が自分のスマホをこどもに渡すシーンを見かけたのがきっかけである。誰かがプレイしたゲーム動画を無料に見ていると、「ゲームを買う余裕がないのか。プレイしたら絶対楽しい」と胸の内につぶやいた。

 そのことをこどもを持っている友人に話すと、「いや、そうじゃない」と言われた。「じゃあ、なんで動画を見せているか」というと意外な言葉が来た。

 

「こどもは黙って動画を見てくれる」

 

誰かに誘われても上座に座るな!

 

 社会人マナーにおいて上座は口酸っぱくなるぐらい注意されるものであり、また、新入社員が上座をわかっていないと、ついついそこは上座だろうと? 口走ってしまうようなものである。それだけ大事なものであるかというと人よりけりであるが、私にとって、上座というのは意外とストレスが溜まる場所だというのが最近になってわかるようになった。

 え? 会社やホテルのカフェにあるソファでくつろげる最高の場所じゃないの?

 いやいや、最高じゃない。逆に最悪な場所である。どうして最悪だというと、誰かと会話する際、“逃げる”という行為ができなくなる場所だからだ。

 ここでいう”逃げる”は相手から与えられた選択に対して、ノーと言える立場でなくなることを言う。意外だと思うがノーと言うためには経験と胆力、すなわち会話力が必要である。それがなければ、ただただ感情で押し切らなければならない。仮に感情で押し切った場合、後から人間関係の構築に多大な影響与えてしまい、最悪の結果を迎えてしまう。これはよくない。ストレスだ。上座に座るというのはけっこうハードなものだ。

 こういうことを考えるようになったのは、カフェで読書をしているときに、何らかの勧誘活動を受けていた女性を見たからである。その女性はだいたい30歳前後か。その女性は次から次へと言葉を足していくセールスマンの話をいやいやながら聞いていた。断る状況を見えなくて目線が泳いでいた。しかも、その女性は最もカフェの出入口から遠い場所の上座に座っていた。

 ――ああ。これはやられるな。

 自分の立場を守りつつ、相手のプライドを傷つけないする日本人にとって、こういう場所を取られたらけっこうまずいものである。セールスの地政学が働いて、相手にノーと言えないマイナス補正を掛けることができるのだ。

 そういえば、私もジュエリーの勧誘を受けて、こういう状況に追い込まれたことがある。まあ、お金がなかったから1カラットたりとも買う気なんてなかったが、あのときもセールスの地政学が働いていたのだなと思う。壁際に追いこまれて目の前に二人、横に一人にするポジショニングをかまされた気もするが、それでもノーをつっぱしった。ただハッキリとノーと言えない雰囲気を作り出していたため、長時間沈黙していたことを覚えている。今になってわかったが、相手は本気にジュエリーを買わせようとしたのだと気づいた。考えてから買わす気はなかったのだ。

 こう考えてみると、上座というのは誰かをダマす場所なのかもしれない。セールスマンがお客を上座に座らせるだけで精神的に追い込むことができて、ノーと言わせない。作用が働く。これは怖い。

 もしかすると、日本人はノーと言えないと指摘されるが、ノーと言えないのは人間関係のこじれを怖れている以外に、今自分のいる場所に何らかの問題が生じている可能性がある。上下関係があるのならまだしも友人関係でノーと言えないのなら、逃げ場のない上座に座らされているのかもしれない、と、言ってみる。