羽根守のハネブログ

羽根守が思ったことを書いていく、そんなブログです。

“異世界18きっぷ”の作り方―異世界モノ短編小説をこう書いた。

 カクヨムで公開した短編小説『異世界18きっぷ』について、色々と書いていきたいと思います。このブログではこれでもか! というぐらいネタバレしまくっていますので、もし『異世界18きっぷ』を先に読みたい方はこちらのバナーをクリックしてください。だいたい18分程度で読めますので、ぜひご愛読してください。

 

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1.短編小説のテーマからどう決めたか

 今回は予め、“日帰りファンタジー”の短編小説大賞というテーマだったので、日帰りでできる旅は何なのかとと考えてみました。最初は『弾丸ツアー勇者』を閃いたのですが、これ絶対誰かやるなと思い、敢えてやめました。あとは『ドローンで異世界を覗いてみよう』とか色々と考えましたが、これは面白くないな、と、ボツにしました。

 ここで『旅なんだから列車を使うか』という発想にいたり、『日帰り旅なら青春18きっぷを使うのが、いいかもしれないな。24時過ぎたら一枚分使えなくなるし』と、“異世界18きっぷ”というタイトルと、テーマ設定が構築できました。

 

 タイトル:異世界18きっぷ

 テーマ:日帰りの旅

 

2.短編小説のプロットをどう書いたか。

 基本、私はプロット中心で物語を書いており、珍しいタイプの書き手だと思います。

 さて、今回のプロットは、3つのメインプロットから構築されています。

 

1 異世界列車の旅:起承転結の「起」「結」でノスタルジックな現実世界

 A:主人公が異世界列車に乗って旅に出る。

 B:目的を果たして帰ってくる。

2 冒険者トバの冒険:物語の枢軸で「承」と「転」でシビアな異世界ファンタジー

 A:酒場にいた魔法使いの少女フィーラとの出会い

 B:悪役の商会長、ケレードからクエスト『「星の石」の真偽性について確認せよ』が依頼される。

 C:しかし、そのクエストが実はウソだったことがわかる。

 D:クエストの手段が尽きた時に助け人と出会う。

 E:ケレードとの交渉中、助け人が「星の石」がある場所へと連れて行く。

 F:クエストをこなすが、ケレードはそれを認めない。

 G:マスターからの依頼→そして大逆転へ。

 

3 もう一つの世界のクエスト:物語の試練。コメディとバトルを織り交ぜる。

 

 A:過酷な塔『星海の灯台』の頂上へ行く。

 B:キングガーゴイルの討伐。

 C:目的の宝物を獲得する。

 

 見ての通り、メインプロットとなっているのが2のトバの冒険です。もしかすると、このメインプロットだけで異世界モノが書けたかもしれません。

 けれども、この別々のメインプロットを列車の車両のように一つにつなげることによって、全く別の異世界モノへと構築することができました。

 

 1-A:主人公が異世界列車に乗って旅に出る。

 2-D:クエストの手段が尽きた時に助け人と出会う。

 2-E:ケレードとの交渉中、助け人が「星の石」がある場所へと連れて行く。

 3-A:過酷な塔『星海の灯台』の頂上へ行く。

 3-B:キングガーゴイルの討伐。

 3-C:目的の宝物を獲得する。

 2-F:クエストをこなすが、ケレードはそれを認めない。

 2-G:マスターからの依頼→そして大逆転へ。

 1-B:目的を果たして帰ってくる。

 

 

 助け人を主人公へと置き換えるとあら不思議、3つのストーリーが1つのストーリーにまとまりました。

 まあ、実際はこんなにテクニカルに書いたわけではありません。ただ『3つの世界で移動すると、3つの話が現れる。じゃあ、先にその3つの話の根底を作れば、異世界列車がうまく橋渡ししてくれるかもしれない』と考えてました。

 意外とこれがうまくいき、3つの世界の出来事が1つの物語に収束し、「これが異世界モノの醍醐味か」と、納得しました。

 ちなみに、メインプロットから外れた筋書きは、所々会話で挟むようにしました。ぜひ、探してみてください。

3.短編小説のキャラクターをどう書くか。

 長編小説やライトノベルと違い、短編小説はキャラクターの掘り下げはほぼ無理と言っても過言じゃありません。

 基本、キャラ小説と言われるライトノベルは、サブキャラから悪役までがメインキャラクターをヨイショしています。ご都合主義とよく言われますが、小説の性格上、致し方ないと思います。

 またライトノベルの長編モノだとメインプロット以外にも、サブプロットがあり、そのサブプロットでヒロインの掘り下げや、主人公の成長などが描かれます。このサブプロットにこそ価値があります。

 しかし、短編小説ではこのサブプロットを書くのは至難の業、ましてや今回ような予めテーマが決まっているものはだいぶきつい。書けたとしても、1つ、2つぐらいしかできません。

 さて、それでは短編小説のキャラクターはどう書いたかというと、単純に、メインキャラクターをだいぶ絞りました。

 

 ・ 主人公(主人公。助け役でストーリーテラー

 ・ トバ(もうひとりの主人公。ヒーロー)

 ・ フィーラ(ヒロイン)

 ・ ケレード(悪役・狂言回し)

 ・ マスター(助言者)

 ・ キングガーゴイル(敵役・試練)

 

 6人もいれば、短編小説だとけっこうスムーズに流れると思います。

4.短編小説のチートはどう使うか?

 異世界モノの代名詞、チート。主人公自体がチートか、最強の魔法を所有しているか、それとも最強の武具を身に着けているか、などがあります。チートはこれがあれば、どんな難問でもなんとなるという安心感を与える素晴らしいものです。

 

 今回の短編小説ではどんな場所でも異世界でも渡る『異世界列車』自体をチートにしました。というより、異世界行くモノならだいたいチートじゃないという発想から来ています。

 異世界列車の能力はずばり“何処にでも行ける”非常識な乗り物。『異世界列車』の活躍は本編中で何度も出ていますのでぜひ確認してください。

5.短編小説の主人公はどう書くか?

 短編小説の主人公はたいてい殺されるか酷い目に会うイメージがあります。話が短い分だけ、あっと驚かせないといけない、インパクトがないといけない、といったことを考えてそうなるのかと思います。

 ただ、今回、日帰り旅なので、主人公が死ぬわけにはいきません。となると、主人公はテーマに沿った旅を純粋に楽しむヒトであるのが好ましいと思いました。勿論、旅が嫌いな主人公が旅に出るとかも面白いですし、知らない間に旅に出ていたと悩む主人公も捨てがたいところです。ただ、今回はストーリーの展開上、『助け人』の役割を持たせたかったから、異世界の旅慣れしている主人公にしました。

 なお、名前は青春18きっぷから青春(あおはる)カズヤ。ひねりも何もありませんが、一番ピンとくるのがこれしかありませんでした。

 

6.その他:物語の重力

 異世界モノに関して自由な反面、物語の重力を持つ何かを持たせないといけません。

 物語の重力とは話の枢軸となるもの、なぜ、主人公やキャラクターがこの場に立っているのか? と読者が思うものです。もし、この重力がなくなれば、文字や言葉が無重力状態となって、力の行き場を失い、ふわふわした状態になります。

 物語の重力となるその何か、基本、その何かは主人公の目的になると思います。

 異世界で無双する:異世界で暴れまくる。

 異世界でスローライフする:異世界でゆったりのんびり生活する。

 異世界でチートする:異世界で世界のシビアさをこじあけ、カタルシスを味わう。

 などなど、主人公の目的によって、話に重力をもたせることができます。

 

 今回のテーマである日帰りファンタジーの場合、どんな重力があるのか考えた所、けっこうあります。

 

 >異世界で日帰りファンタジーをする

 

1:異世界でのんびりと旅をして現実世界に対する英気を養わせる。

2:現実世界のムシャクシャを異世界で発散!

3:現実世界だと冴えないけど異世界だと無敵!

 

 など、日帰りファンタジーにおける物語の重力は、この現実世界と異世界の対比になると思います。現実世界のマイナス部分が、異世界に行くことでプラスとなり、物語の見栄えにもなります。

 

 ただ、今回の作品における現実世界と異世界の対比はあまりしていません。今思えばけっこうもったいないことしたなと感じています。

7.終わりに

 異世界モノ短編小説をこう書いたというテーマでブログを書きましたが、意外と書けましたね。ここまで読んでくれた方は感謝します。

 これから異世界モノ短編小説を書こうと思う方がいれば幸いですし、よし、ついでに『異世界18きっぷ』も読んでやるかと思われる方がいられたら嬉しい限りです。

 それでは、ここで失礼します。

 

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久方ぶりに小説でも書いてみました

カクヨムに短編小説を書いてみました。

ぜひ読んでください。

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それでは。

その次。その次。

 人間、“その次”を考え出すと一気に未来が閉ざされる気分となる。特に、“その次”の“その次”なんて考えたら、未来に潰される。

 例えば、今している仕事が終えたとき、その次の仕事を考える。この仕事は早めにやるべきか、それとも誰かに任すべきか。それとも、少し休んでからとりかかるなど、仕事に対する準備を考えてから仕事をする。

 そして、その次の仕事にとりかかろうとするそのとき、“その次”を考えてしまう。

――またこれをやるのか? またこれを……。 

 思考がタイムループするような感覚。消化したはずの作業が実のところ消化しきれず、胃から這い上がってくるような嗚咽と共に、気味の悪いものがこみあげてくるこの感覚。それが“その次”である。

 まあ、これが“その次”でなく、今やるものなんだなと思考を振り切れればそれでいい。しかしながら人間、“その次”というものは何度か多々出会うものだ。そのときも、“その次”なんだな、と思って、無駄口を何度も叩きながらそれをやりきるものだ。

 それを何度か何度かやりきっているその道中で、“その次”が2つ、3つ、4つと、整列して並んできてしまったとき、一気に背筋が冷えてくる。

 ――あ、あれ。

 “その次”の次に、“その次”。“その次”の後ろに“その次”。“その次”が“その次”と、次から次へと“その次”が正しく整列して、前へと向かってくる。

 “その次”は何処まで行っても果てがなく、自分が“その次”を消化しなければ、消えることはない。

 ……これが“その次”。

 合わせ鏡の真ん中に立って、際限なく増え続ける自分を見つめるような未来思考がそれ。“その次”の“その次”を考えるとまた合わせ鏡が一枚増えて、“その次”の像がまた増えるのである。

 

 たいていの人間は“その次”の“その次”なんて考えないもので、未来のことを言えば鬼が笑うと考えないものだが、無意識はなぜか“その次”を考え出してしまうことがある。生存本能なのか無邪気なのかは知らないが、そういう未来を考える。

 基本、未来を考えることはいいことだ。今より上を目指して目標を定めるのだから、“その次”について考えるのはいいことである。

 しかし、“その次”がある日、突然、『その次その次その次……』と壊れたコマンドプロトコルの如く、未来が次々へと描かれ出す。しかも、頭の中で思い浮かぶ像はすべて、今いる風景と同じ景色で同じことをやっている。やっているのだ。

 これはもう危険信号だ。これ以上考えるとノイローゼになる。思考はもう無理だと吐き気を催しているのだ。

 

 さて、ここで視点を変えてみよう。

 

 “その次”の“その次”があるということは、“その次”の“その次”まで自分はそこまで生きてそれができている。

 もしかすると、現在が底なしの状態で“その次”もそれかそれかもしれない。けれど、そこまでは、そこまでは、なんとか生きている。――そう見てみよう。

 

 プラシーボにもならないパラダイムシフトではあるが、“その次”の“その次”まで、時間ができている。無意識が動ける時間の空白を見つけてくれているのだ。

 

 ――その時間の中で何か別のことを見つけよう。“その次”から出ていくために。

 

 “その次”を考えることは今いる自分をよりよくするための思考である。“その次”に潰されないためには、いち早く、“その次”が来たと認知し、“その次”をどのように解消するか、それを考えてみよう。

 

 と、まあ、何を偉そうに。と、自分自身そう思いながらこれを書いている。まあ、夏休みの宿題を“その次”“その次”と回していたら、8月31日にその宿題を一気にやらなくはいけない事態になったことを思い出し、これを書いたわけである。(まあ、最初の科目まで宿題を伸ばしたけど)

 その次その次でできるうちはいいが、時間切れがあることをお忘れなく。時間が来ればその次がなくなるから。

 こう考えれば、“その次”は自分の心からのメッセージだと思うことができると言ってみる。

 

“ながら行為”があなたを苦しめる

 

 今日は頭から本題に入ります。

 

 ながら行為とは、本題以外の何かをしながら本題の作業をすることである。例えば、スマホを見ながら街中を歩くことがそれに当たる。スマホで情報を得ながら目的地まで歩くと、なんだか一石二鳥だと思うものだ。しかし、スマホを覗きながら歩く行為は目の視野が狭まり、足下しか見ていない。そのため、スマホを見ながら歩くそのヒトはインディジョーンズに出てくる"大きな大岩”のようなものである。

 ここまではまだいい。いや、周囲の人間にとってよくはないが、ここでは周りの人間は度外視することにする。

 ながら行為があなたを苦しめる理由は"ながら”行為が優先順位の上位に立つことがあるからである。夜、勉強中、音楽を変えようスマホを見ているとLINEの通知が来て、既読を踏んでしまい、急いで返信してしまう。それから相手は次々からメッセージやスタンプを送ってくる。それがなんだか楽しくなって返信返信していくうちに、『あ、もうこんな時間』となり、ムダな時間を過ごすことになる。これが本題が”ながら行為”と入れ替わった瞬間である。

 “ながら行為”の怖いのは知らない間に優先順位のトップに立ち、時間を食うことにある。しかも“ながら行為”は簡単にスイッチが入る行為であるため、すぐに手を伸ばしてしまいがちである。

 それではなぜあなたは“ながら行為”に走ってしまうのか。

 ――息抜きのために“ながら行為”をする。

 ――そもそも本題そのものがつまらないから“ながら行為”する。

 ――“ながら行為”が好き。

 などなど理由はさまざま。人間、壁にすき間があれば、手を入れたくなるものだ。だからこそ、作業の空きのスペースがあったら“ながら行為”をしたくなるのも納得できる。いけないと思っていても、「退屈は苦痛。だから何かをしながらやれば得するのではない」と思って、“ながら行為”をする。そして、知らない間にそれにハマるというのは様式美である。

 “ながら行為”は拡散的欲張りである。あれもやりたいこれもやりたいと欲望を拡散させて、実際にそれを行動化させる。あれもこれも意識を拡散されてば、集中力なんか失うことなんて知っているのに、なぜか意識を拡散させたがる。

 人間の脳はダブルタスクなんてできないというライフハック記事は至るところにあるのに、ついついそれをやってしまう。まるでダイエット中にお菓子を食べてしまう意志の弱いコみたいなことをやっている。拡散的欲張りによって、“ながら行為”が優先順位のトップに入れ替わって、自分自身を苦しませるのに。

 それでは“ながら行為”はどうすれば止められるのか? スマホの電源を切れば良いのか? いや、それは違う。スマホの電源を切った所で、マンガを読んだり、ゲームをしたり、テレビを見たりするのは目に見えている。退屈が猛牛のごとくうごめき、拡散的に欲張り出す。これが無意識レベルで働くのだからたちがわるい。意識的に止めてもらうには、家族や友だちに止めてもらうか、もしくはコーチングしてもらう必要がある。(まあ、コーチングレベルまで来たらある意味、依存症レベルだと思うが)

 だが、この“ながら行為”を止める秘策はある。それは作業場を変えてみることである。

 自宅で誘惑が多いからカフェや自習室で勉強するというヒトがいる。誘惑との距離を持つことによって、拡散的欲張りを遠ざけている。また、自分をその勉強する環境の中に入れることで、その環境の一つとなり、退屈を殺している。“ながら行為”を引き起こす拡散的欲張りはこのように対処することができるのである。

 とはいえ、作業そのものは退屈であれば“ながら行為”をしたいものだ。

 そこで“ながら行為”をしたくなったら、“ながら行為”そのものの優先順を落としてみるのが一つの手だと思う。スマホで音楽を聞いていたら出ている音を下げたり、友人とLINEしていたら10分おきにメッセージを送ると約束したりと、自分の中にある拡散的欲張りを発散させつつ、優先順位を落としす。“ながら行為”を触発させているのは退屈と得したい気持ちなのだから、それを治めれば拡散的欲張りはなくなるはずだと、言ってみる。

 それでも“ながら行為”が止まらないのなら近くの心療内科へと行った方がいいかもしれません。

 

復習や反復練習ほどイヤな言葉はない

 

 復習は嫌いだ。まして反復練習というのは嫌いだ。

 まったく同じ内容のことをやるのだから意味ないと思う。しかも、何度も同じ練習をさせられるのだから、上手い人から遅れる感じがする。

 ……あのヒトはもっと良い練習をしているのだからうまい。

 ……あのヒトはもっといい人から良いことを教えてもらっているのだからできる。

 そんなことを思い込んでしまう。そしてその苛立ちからいつしか復習をすることをやめて、ホントの置いてけぼりになる。

 しかしながら、反復練習ほど技術が身につく方法はない。よくある新書やライフハック記事からは『反復練習は絶大』と言う。記憶が定着する。スピードがつく。理解ができるなどなど、効果は実証されている。

 わかっている。わかっているのだ。

 それで力がつくのはわかっていると頭ではわかっている。

 ――ただ、復練というのがスゴくメンドクサイ。生理的レベルでやりたくないし、本能的レベルでキライなのだ。

 新しいものを求めたがる現代人にとって同じことをするのは大きな不満である。もっと別の新しいことをやって新鮮な体験をしたいのだ。

 そもそも復習という言葉自体が嫌いだ。

 また習う、おなじことを、また習う。実にメンドクサイ。

 言うまでもなく反復練習という言葉自体も嫌いだ。

 反復は返って再びするという意味。練習は練り習うという意味。

 すなわち、返って再び練り習う。

 ちょっと待って、練習は練り習うのだから誰かにコーチングしてもらう必要があるだろう? それなのに、誰かに同じことをもう一度習うなんてイヤすごくメンドクサい。基本、練習は独学であるため、反復練習も独学の延長上にあるが。

 それだけではない。授業で1時間受けたとする。復習なら1時間も掛けないのかといけないのか? えッ!? 大切な青春時代に1時間も割けられますか!? 復習が嫌われるのはどれだけ時間をかけていいのかわからないことにあるはずだ。もしかすると、1時間は愚か、2時間以上も時間をかける可能性もある。ボクはもう嫌だ、と、噂の快男児も言いたくなるのだろう。

 

 その上、反復練習という単語が長い上に言いにくい。「はんぷくれんしゅう」で9文字。途中の「ぷ」って発音で山を感じ、また「しゅう」でもう一回山に登る気がして嫌気がさす。反復練習という言葉がイヤになるのは意味以外にも発音にも問題がある。

 そしてこの言葉が勉強嫌い君に拍車をかける。

 ――これを『復習』しろよ。

 ――これは『反復練習』しとけよ。

 ヤだ。何度も同じことをするのは。もうわかっているのだからこの範囲は! と言って、テストで悪い点を取るのがオチである。

 

 実に忌々しい言葉だ。復習め。反復練習め。オマエには日本の学生達に対して数えられないほどの余罪があるはずだ。復習をしなさい、反復練習しなさい。軽々しく使わないでくれ。メンドクサさ100%なんだから。

 私はこの言葉の呪縛を解き放つ必要があるのではないかと思っている。復習、反復練習をもっと軽い言葉にすべきだ。

 もし、私が復習や反復練習に別の名前を与えるとしたら――

 

 ――リピる

 

 これでいい。シンプルでいい。言いやすい。使いやすい。

 できないところだけをリピる。記憶の精度を上げるためにリピる。実にいい言葉だ。

 

 どうも復習というのは、授業中、先生の言った言葉そのものを思い出して全範囲を網羅的にやらなきゃいけないのではないかという重さがあるように感じる。勿論、そんなことはないのだから先生が復習と言うと、オレの言ったことをすべて覚えとけよ、という感じがして実に苦しい。

 本来、復習というのは講義後や問題を解いた後に、自分ができない問題を再確認し、出てきた語句や数式を覚えるチャンスなのであるがどうもそれができない。先生が言う言葉だけを覚えとけばいいと軽んじてしまい、テキストや問題全てを読み込むことをほったらかしにしてしまう。おそらく私は復習の才能がないのだと思う。

 復習は授業や講座のもう一度繰り返しではなく、学習能力の精度向上なんだと思えば、少しはやる気が出る。だから授業の内容をすべて思い出すような感じがする『復習

』『反復練習』という言葉ではなく、自分ができない所を補強する意味で『リピる』という言葉を使うようにしようと思う。

 

 ……今日のブログはホントにどうでもいい話だったと少し反省しています。

 

サヨナラ英語からのりスタート本

 

 ※ 本文は下にあります。

 

 小学校から英語が導入され、ローマ字の読み方はどう読めばいいのかと騒がれているが、いつから英語を学んでも英語がまったくできないのが現状である。私自身もこどもの頃、親に英会話教室に行かされたものも、教師が言った単語をオウム返しにするだけで学ぶことはなかった。

 まあ、英語ができるためには日本語文法の壁を壊し、英語の発音には有声音以外に無声音があることを知らないといけない。それに加えて、英語を使う言語圏の文化性や宗教観を意識する必要もあるため、英語がハードルの高いものへとなってくる。

 これがこどもの頃からやるのだからさあ大変。言葉の組み立て方が全く違う言語を同時平行でやっていくのだから頭が困惑し、『日本人なんだから英語はできなくていいじゃん』思考になる。サヨナラ英語になるのも仕方ない。 

 いや、それだけならまだいい。英語教師が英語を教えるに値しないレベルに達していないとニュースになっている。しかも、生徒の英語ができないのは教師ではなく生徒のせいになるのだから、こどもの英語ぎらいは拍車にかかる。

 私が高校時代の頃、SV、SVC、SVO、SVOO、SVOCをしっかりと教えてくれた英語教師はいませんでした! と、胸を張って言える。おかげさまでその当時は、英語がまったくできない君になりました。ちくしょー。

 しかし、独学で英語学習をやり直し、英字ニュースが読めるぐらいのレベルにはなった。とはいえ、リスニングや英会話、しっかりとした発音などなど、まだまだやらないといけない所はある。

 

 ――課題が多くなるとどうしても手づかずになってくる。

 

 こうなるとサヨナラ英語をして心をラクにしたい。

 一度ラクを知るとどうしても習慣化としたくなる。こんな心へと傾く中、本屋に寄ってみたら良書と出会ったわけである。

  

□ サヨナラ英語からのリスタート本

  英語は“速く”間違えなさい

 

英語は

英語は"速く"間違えなさい

 

 この本は良書です。

 英語学習書は『ここが変だよ日本人』のようなクリティカル(批判的)なポイントを洗いざらいして、外国人はこうするんだよ、という本があるが、この本はそういった所がない。

 “恥はチャンス”と前向きになれる言葉が多数並んでいて、英語にある苦手意識を感じなくて楽に読める。しかも、中学生でも読める平易な文章であるため、スラスラと何度でも読める。

 

 ・ 100万、間違えればそれだけ英語が習得できる、

 ・ 5分間でできる勉強法、

 ・ 英語のメンタルケア、

 

 などなど、英語の学習書以外にもコーチング本としても役に立つ。もし、文法や長文でイヤになっている中でこれを読み返せば、失ったやる気が取り戻せる、いわば消費しないドリンク剤的な本として使える。本棚で手に取れる位置に置いときたいそんな一冊だ。

 

 ただ、受験や資格を取るための英語学習本ではない。センターで9割取る、TOEICで満点取るといった英語戦略学習本ではないということだ。受験で良い点を取ればそれでいい、と考えるのであれば、他の本を選んだ方が良いだろう。

 

 それと、この本はタイトルと中身が少しズレている。

 この本の中には「英語は一朝一夕でできるものではない」と読める所がある。あれ? タイトルと違わなくないと思うがそれは違う。『英語をすぐできるようになるには”速く“間違える』ということではなく『英語をしっかり長く付き合っていくためには”速く”間違えて正確な英語を身につける』という意味である。

 なので、英語を短く学習したいインスタント英語を望むヒトは、この本はオススメできない。英語を長く勉強するためのガイドブックを探しているのであれば、速く手に取りなさい、と、言ってみる。

 

 英語に対して苦手意識を持っているヒトも、もう一度英語をやり直したいというヒトも、本気で英語からサヨナラしたいヒトも、この本を読んでみるといいと思う。この本が良書ならそれでいいし、この本はダメだと別の本を手に取ってみる。

 

 “速く”間違えるというのは『良いこと』を見つけるキッカケになる。

 

 と、英語学習書以外で良いことを学べた気がした。

 

英語は

英語は"速く"間違えなさい

 

 

――血反吐の『自己愛』マラソンで自己を肯定する。

 

 一週間前、なんとなく図書館で手にした一冊の本がある。 

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

 

  タイトル通り『自己愛』について書いてる本である。感想についてはあまり話したくない。感想としてはなんというか“距離が近すぎる”。STAP細胞事件や西鉄バスジャック事件などなど世間を驚かした事件を『自己愛』をテーマに切り込んでいるのだが、断定的であり、それ、きちんと調べたの? と、言いたくなるところもある。アマゾンでの評判も描き下ろしだと言うのに芳しくなく、作者のクセが出てしまった一冊である。

 仮に、これをビブリオバトルでビブッてください(この本をみんなに読ませてください)と言われても、ビブりポイント(この本を読ませたいポイント)が思いつかない。「『自己愛』は危険です! 『自己愛』には気をつけましょう!」としか言えず、みんなをビブビブとビブらせることができないのである。

 本の内容についてあまり誉めていないように思われるが、意外といいことは書いてある。でも、作者と題材との距離が近すぎて、まるでそこにいるかのようにレポを書いてるんじゃないの? と、思ってしまい、ちょっとイライラする。そういう意味では危険な本とも言えるため、悪評高いのも納得である。そんな偏見を外した上でこの本を読めば、作者の言いたい『自己愛』についてわかるかもしれない。

 

 と、本の感想はこれぐらいにして。

 

 今回、『自己愛』について調べていたのは、最近見かけるニュースから『自己愛』に関する事件が多いと感じたからである。

 ここで『自己愛』というのは自分を賛美すること。つまり、「自分はまっとうなことをしているから何も非難されない」と、自分を正当化することだと、規定しておこう。

 自己の後に続く言葉と言えば、自己アピール、自己演出、自己評価、自己満足、自己中心的などなど、今の日本語、自己+単語で様々な言葉ができあがる。これだけ“自己”という言葉にこだわりだしたのは、やはり“自己責任”という言葉が現代の日本人の胸に突き刺さったからだと思う。

 まあ、自己責任論に関してとやかく言った所で『自分のやったことは自分のケツで拭け!』というのがオチなので、それについては何も言わない。ただ、それまでは『ジコチュー』と会話の中で軽くいじられる程度でしかなかった“自己”が、現実問題に関わる『自己責任』へと重くのしかかるものになってしまった。重たくなった“自己”を克服するために、ひとびとはビルディング、自己能力を高めるようになった。

 今の日本の社会が“自己”を形成し、それを売り込む地盤になっている。うまく自己を売れればそれでいいのだが、残念ながらそれをすべて買ってくれるヒトはいないのが現状である。

 それに加えて、うまく“自己”を形成できない問題が出てくる。経済的問題、家庭的問題、教育的問題、就活的問題などなど、現在の人間はどうしても“自己”を盛りがちだ。

 そして、その盛った“自己”がズレてしまい、それが虚飾へと落ちる。誰かにそれがウソだと指摘されたとき、「すいませんウソです」と認めればいいのだが、「いえ、ホントです」といつまでもウソを認めない。それを自分が傷つかないためにウソをついている自己愛まみれの人間だと指摘されるわけだ。

 ただのウソならかわいらしいが、そのウソには生活がかかっているのだからタチがわるい。けれど、今の社会土壌では“自己を盛る”のが普通なのである。しかし、あまりにも“自己”を盛りすぎて地盤沈下を起こしているのも珍しくない。

 自己を盛ることがコントロールできず、それがウソだと指摘される。それが世間で言う「あのヒトは『自己愛』が強いから」という批判につながっていると見ていいだろう。

『自己愛』が作られるのは、そのヒト自身が自分を傷つけないためにウソをつくのはなく、周囲の環境のプレッシャーと対抗するために作り上げてきた“自己”をうまくコントロールできず、盛った“自己”がずれ落ちて、醜い部分がさらけ出してしまい、最終的にそれが表面化した“自己”だと考えられる。一生懸命ガンバって作り上げたビルディングが崩れたのだ。

 表面化した“自己”が醜いものと思えるのは、その人間の実力不足と喪失感を目にしたからである。ところが、当事者はまったく気づかない。それもそのはず、盛った“自己”はトカゲのしっぽのようなものであり、切り落とすことができる。しかも、トカゲのしっぽと違って神経がつながっていないからそうそう痛みを感じない。けれど、見ている側は違う。盛った“自己”もそのヒトだと見ているのだ。

 

 社会でうまく生活するために“自己”を作りあげなければならない。ただ、“自己”を作るには何かと盛らないといけない。それがウソなのか、自分の実力で勝ち取ったものなのかは、そのヒト次第。ただ、あれもこれも一人の人間にやってもらいたいとお願いする社会と対抗するためには、それなりの”自己”を持たなければならない。

 SNSを駆使して自己演出。資格学歴で自己アピール。

 誰もが納得させる“自己”を見せることで、自分が存在できる。けれど、その“自己”を手にするには何かと時間もかかるしお金もかかる。しんどい。つかれる。おわりがみえない。

 ――血反吐の『自己愛』マラソンで自己を肯定する。

 と、そんな視点で社会を切り込んでみたら絶対鬱になるのでやめましょう。責任は持ちません。

 

 自己愛について考えたら、自己愛モンスターになってしまった! というオチでおわりにしてください。はい。

 

 

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

(085)自己愛モンスター (ポプラ新書)

 

 

 なお、この本はどうやってもビブレませんのであしからず。